「世界は狭すぎると思うんだ」
アルフレッドの言葉に菊はただ「そうですか」と答える。アルフレッドはだらしない格好で寝そべって、最新のゲームに身を投じていた。ゲームの中で彼は勇者で、今は呪われた城に巣食う魔物たちを、ばったばったと力任せに張り倒しているところだ。
「俺の家も、菊の家も、狭すぎるよ」
「そうですか」
「せめてこれくらい、自由に動き回れたらいいと思うんだぞ」
アルフレッドは羨望にも近い目で、テレビの大画面を見ている。勇者は魔物の総大将と戦っていた。菊には、彼の指と、たかだかそんな四角い画面に収まる大きさの世界の方がよほど、狭いように思えた。湯気を立てる緑茶を啜りながら、菊はその世界を見る。電波が存在しない、極めて原始的で、かつ解しがたい世界だ。その世界に国があるかは知れずとも、城も王も軍もいるのに、世界を救って回るのは彼の指で操られているたった一人の少年だ。何百人の兵で叶わない相手を、その少年と数人の仲間は犠牲も出さず打ち破っていく。その少年は最強だ。誰にも勝てない。魔物が蔓延り、日常的に人間が食われてしまうような世界でも、彼さえ居れば、いずれ世界には平和が訪れるだろう。菊は先日買ってきた、数量限定の饅頭を口に運ぶ。
「私はご遠慮させていただきましょう。この老体には、そのような危険な世界はつらいでしょうから」
「大丈夫! どんな時だって俺が救ってみせるぞ!」
「でも、助けられるまでは怖い思いをしなければならないでしょう」
年寄りには、それだけでショック死ですよ。菊は、たった一箱十個入りの饅頭を大切に食べようと意気込んでいた。しかし、何時間か前に、突然押しかけてきたアルフレッドのせいで菊の計画は大破した。限定十個の内、七個は寝そべるアルフレッドの周りで、既に包装紙だけになってしまっている。残り三個だけはなんとか死守したものの、今食べた饅頭の半分は、「大丈夫!」の台詞と同時にアルフレッドの口の中だ。
「そんなのここと変わらないじゃないか」
「ここには私の嫁が居ますから」
「いもしない妻を愛でるのかい?」
退廃的過ぎるぞ! ぷぅーっと、アルフレッドの頬が丸く膨らんでいく。それはお前も一緒だ、と言ってやりたかったが、菊はそれを寸前で飲み込んだ。有り得ないものに幻想を抱いてるくせに。アルフレッドの指が、画面の敵を張り倒していく。何時間もそうして動く勇者は疲れ知らずだ。菊はやっぱり、そんな世界はお断りだ。美味しい饅頭があるか分からないし、来週発売のゲームが買えない世界なんて、考えただけで死んでしまいそうだ。ただアルフレッドはそう思わないらしく、待ち望んだ楽園がそこにあるかのように、溜息を吐いた。
「本当に世界は窮屈だよ。息が詰まりそうだ」
「そうですか。でもそっちの世界に行くには、画面が少々邪魔ですねえ」
「通り抜けられる機械でもあれば良いのに」
「その意見には同意します」
ずずず、と菊は緑茶を啜った。緑茶の渋みと、口に広がる餡子の甘みが混ざる。画面の向こうでは、倒したはずの総大将が再び立ち上がっていた。二連戦とは、序盤からなかなかシビアなゲームだ。さっきよりおどろおどろしい姿の魔物が、画面に躍り出た。菊から無理に奪い上げたゲームなのに、勇者を操るアルフレッドはどこか退屈そうだ。天をも貫くテンションは低迷しつつある。珍しいこともあるもんだ。菊はまた茶を啜った。退屈からまた、突拍子のないことを言い出さなければいい。菊が望むのはそれだけだ。
「ねえ菊。いっそ二人で宇宙にでも行かないかい?」
ああほら来たよ。菊は、アルフレッドの言う窮屈な世界より、アルフレッドの思いつきを呪いたい。必死に取り繕った笑顔で、菊はアルフレッドに問いかけた。
「二人でですか?」
「ああもちろん。ヒーローがいるならヒロインもいないとね」
「けれど一人より、二人の方が窮屈ですよ」
シビアな条件に耐え切れず、勇者は断末魔を上げて地に伏せた。真っ暗な画面に、白い衣装の勇者が浮かんで、『GAME OVER』と血文字で書かれた文字が画面に浮かび上がる。アルフレッドはコントローラーを投げ出して、若者らしいスラングを口走った。勇者が死んだ世界は、魔物に埋め尽くされて行方知れずになった。ヒロインは魔王に捕らえられたまま死んでしまっただろうか。うつ伏せになって、彼は畳と同化しようとしている。足をパタパタ動かして、縋るように菊を見上げた。
「一人でいたら、菊といるよりも窮屈なんだよ。なんだか余計に狭いんだ」
アルフレッドは寝そべったまま、匍匐全身で菊の膝まで来た。不思議だろう。そう言って腕を腰に巻きつけてくる。菊は湯飲みをちゃぶ台に置いた。
「それに宇宙に二人きりなら、ここよりはまだ幅があると思わないかい」
宇宙を二人で開拓していこうよ。そんなフロンティア精神は若さから来るものか、菊は思わず遠くを見た。
「菊と一緒なら、きっと出来ると思うんだ」
どうも身勝手な言い分に、菊は頭を悩ませる。彼はこの広い世界で何故自分を選んだのだ。彼に従順な菊を選んだ辺り、アルフレッドは自分の提案を肯定されたいだけなのではないだろうかと菊は考えた。きっと彼もそういう年頃なのだ。枯れた爺の菊は、アルフレッドの力強さについていけない。しかし、菊は彼の腕にあらゆる意味で拘束されているので、その場からは逃げられない。菊は画面の中に、世界に名立たる執着を見せてはいるが、それを混同したいとは思わない。届かないからこそ、輝くのだ。日常と混ざってしまえば、二次元の価値は廃る。と同時に、このまま宇宙に行ってしまったら宇宙の価値すら廃ってしまうだろう。主にアルフレッドの中で。残り二つ目の饅頭の一つが彼の胃袋へ消えていった。ああ面倒くさい。菊は嘆く。価値が廃った後で、彼がまた押しかけるのは菊の膝だろう。
「アルフレッドさん」
「分かってるよ。君は『また今度』って言うんだろ」
「違いますよ」
思っていたのと違う菊の言葉に、アルフレッドは菊の膝に伏せていた顔を上げる。菊は神妙な顔で、アルフレッドの額を撫でた。
「アルフレッドさん。それは、狭いとか、息苦しいとは少し違いますね」
じゃあ何だって言うんだ。アルフレッドは口を尖らせた。
「あなたのそれは、寂しい、と言うんですよ」
宇宙まで連れて行かれるぐらいなら、初めから場所を提供するのが得策ではないだろうか。そう菊は考えた。どうせ自分の膝を使う相手なんて、ぽち以外だとこの大きな子供しか居ない。アルフレッドは、きょとん、と眼を見開いている。言われたことを理解し始めると、見る見るうちに苦虫を噛み潰したような顔になる。そしてもう一度強く、菊の膝に顔を押し付けたかと思うと、うあああああと足をばたつかせて地団駄を踏んだ。
「分かってないよ! 君は全然分かってない!」
眼鏡が潰れてしまいますよ。菊が穏やかに言うと、アルフレッドは一際大きな声でスラングを叫んだ。
|