恋愛がプラトニックであることを許されるのは子供までだ。男女のなんたるか、性がなんたるかを知らない子供が飯事同然に恋愛の真似事をして、それから起こる自己満足でしかない。そもそも恋愛なんていうのは生殖活動を肯定する後付けのようなものでしかない。交尾をすることは生き物に備え付けられた本能で、それに意味を求めようとすることなんて全くの無駄だ。
違う、そうじゃない。そうじゃないんだ。否定したって、結局行き着く先は同じ。望んでるものも同じ。 乙女チックなセンチメンタリズムに身を窶すつもりなんかない。博愛主義なんか以ての外だ。愛と名のつくものは、欲を満たすだけの理由に使うような、安っぽいガラス細工じゃない。例え高価だったとしても、店先に並べ揃えている物を金で買っては意味がない。少なくとも俺は嫌だった。ガラス細工よりちゃちな造形をしていたって、自分で見つけ出して自分で磨き上げたい。その先が自分に牙を剥くような仕上がりになっても、きっと後悔なんていうのは言い訳にしかならない。そう、でも、出来るのなら、それを送る相手を傷つけなければいい。重荷にならなければいい。こうして言い並べていることが安っぽい乙女チックなセンチメンタリズムなのは気づいている。気づいていたって誰が止められるって言うんだ。 異性でないからといって、菊に欲情しないわけじゃない。いやむしろ、言葉にするのが惨いぐらいの、酷い妄想を毎夜繰り広げている。菊はある日は泣いて、ある日娼婦のように振る舞う。でもそれはあくまで俺が作り上げた夢でしかない。事を強いて菊がどうなるのか俺は知らない。想像ばかりが先走って、もう星の彼方へでも飛んでいってしまえばいいとさえ考える。 生物の本能とか、そんな言い訳が同性相手に通じるわけがない。俺たちが交尾したって何が生まれるでなし、ただの非生産的な遊びにしかならない。愛だの恋だの語るつもりはない。そんなんじゃあない。これはただの自己満足と無意味な自尊心からなるくだらないまやかしだ。俺は遊びのつもりなんかじゃない。そうだもっと、宝物みたいに、小さな子供が大切に抱え込んでいるみたいに、いっそ盲目なほど慈しみたいだけだ。蜂蜜みたいにドロドロに甘やかして、大切にしたい。そう思うだけだ。 だから、酔いつぶれた菊をどうにかしようなんて、それは考えるだけで、自分への裏切りに近しい。下戸な菊が珍しく酒を飲み、気分良さそうぐでんぐでんに酔っ払っていたって、その姿に欲情するのは、とてもとても、重大な裏切りだ。何に対するかというと、……自分が定義する愛に対して? ああ本当に馬鹿馬鹿しい話だ。大勢の人間が俺を笑うだろうけど、これが俺に出来る唯一の無償の愛だ。「無償だって?」 そう言って誰かが笑ったような気がしたがそれは幻聴だ。深夜のホテルには俺と気分の良さそうに鼻歌を歌う菊しかいない。俺が菊に用意したホテルだ。信用と実績がある。酷い酔い方をした菊は足取りも覚束なく、酒場からほぼ俺が引きずってきたようなものだったが、菊の体は驚くほど軽く、菊の重さが掛からない肩は寧ろ物足りなさを感じている。そこには間違いなく精神的な何かが関与していたが、俺はそれを都合よく無視した。変な気を起こさなくてよかったと、菊に気づかれないようにベッドに腰掛けて息を吐くだけだ。 ベッドに放り投げてからも菊はへらへらと上機嫌に笑った。悪い気はしないが、変な気はする。さっさとこの部屋を出ていきたいが、恐らく明日になったら容赦ない二日酔いに襲われるはずの菊を、見ず知らずの一室に放っていくのは些か可哀想だ。せめてここが俺の用意した部屋だと言うくらいは伝えておきたい。置き手紙と水を置いておけばすむところだが、果たして菊がそれに気づくだろうか。そう不安に思ってしまうまで悪酔いした菊は初めて見る。 極々内輪だけの、アルフレッドやフランシスが参加するような飲み会だったから、菊は和服だった。きっちりと整えられた着物がよれよれにはだけて、そこから覗く水が溜まりそうな鎖骨や白くて細い太股は見ていてクラクラする。同性相手に欲情するなんておかしいだろう。そいつは俺の子供を孕めるような器官なんて持っていやしないのに。悪戯な劣情がほしい訳じゃない。頭を振る。目の裏の菊は消えてくれない。そりゃそうだ。菊はまだ俺の後ろで寝っ転がってへらへら笑っているのだから。艶めかしい菊の体を思い出して心拍数が上がる。深呼吸すら侭ならない。アーサー、お前は本当にろくでもない男だ。戒めの言葉すら間抜けで仕方ない。 「……、アーサーさん」 上擦って、掠れがかった菊の声が俺を呼ぶ。そんな当然何でもないはずのことに卑俗な妄想が先行する。性懲りもなく上がる心拍数が俺を責め立てる。アーサー、お前は本当に。 「なんだ?」 極力菊を見ないように返事をした。本当にどうしようもない。これが妄想ならまだよかった。いつものように菊を手ひどく扱えばいい。だが現実では、俺はこんな馬鹿げた感情を告白すらしてない。 「アーサーさん、怒っていらっしゃるのですか?」 「そんな訳ないだろ」 「さっきからずっと、知らんぷりをしていらっしゃるじゃないですか」 布擦れの音がする。菊が起き上がったようだった。鈴がなるように凛とした声が、艶を増して俺の中で反響する。心臓が蒸気を上げて動きを加速させていった。どっどっどっどっ。一定間隔で速度を上げていく心臓は体中に酸素を送り出し、細胞を活性化させて汗腺を開かせた。わっ、と吹き出る。菊は俺の背中に触れて、しなだれかかる。止めてくれ。心臓の音が聞こえてしまうから。 「―――凄い音。これは私の音ですか、ねえ、それとも、」 「―――――、ぅ………」 ふふふ、と菊が笑った。菊は俺の背中にしなだれ掛かったまま、俺の体に蛇のように絡み付く。菊の細くて白い腕は、まるで二匹の白蛇のようだった。菊が笑うと湿った吐息が首に吹きかけられ、俺はどうしようもなく菊の存在を無視できずにいた。 「アーサーさん、体がとても熱いんです。熱くて熱くて、溶けてしまいそう」 菊が話す一音一音が、俺の中の菊を形に現していく。菊が囁く度に吐息は俺を誘惑して、菊の体温は俺と同化しようとざわりと動く。ちょうど心臓の上に重ねられた菊の両手は、今にも皮膚を突き破ろうとする心臓を待ち構えているみたいだった。飛び出した心臓を菊はどうするのだろう。ぺろりと赤い舌をちらつかせて、それを丸ごと平らげてしまうだろうか。そこに感じるのは一種の恍惚とした満足感だ。 「酔っ、てるんじゃ、ないの、か」 俺は嗄れた小声で答えたつもりだった。俺の耳にはその声よりも鼓動の方がよく聞こえてしまって、それがちゃんと菊に伝わっているか心配だ。 「……そう、酔ってるんです」 菊の言葉は簡素で簡潔だった。すっと透き通る声を鼓動の太鼓が喚き散らす中きっちりと耳は拾い上げた。菊の一言、その小さな口から漏れる意味をなさない一音だって、吐息が生む空気が震えさえ聞き漏らしたくはないのだ。今も菊の言葉を聞き漏らさずに安心したが、疑惑も頭を擡げ始める。酔っているにしてははっきりとした口調だ。菊はそういう酔い方をするのかもしれないが、さっきまでのへらへら笑っていたのに、こう態度を急変されると俺は為す術もなく菊にされるがままになるしかない。あんな正真正銘の酔っ払いだと俺もどうにか節度を弛んだ頭のネジを絞められたが、こんな、娼婦みたいに体をすり合わせられてしまっては、ネジを絞めるどころか俺の中の様々なものが爆発してしまいそうだ。俺は確かに菊に疚しい感情を抱いていはするが、だからといって本人に手を出すつもりはまるでない。飯事だって構わないから触れないでいたい。例えば妄想や浅ましい期待を夢想しなかったといえばそれは勿論嘘だが、そんな一時の劣情や性欲のために菊を傷つけたくない。もし菊が女だったなら、俺が思う関係も違ったものになったかもしれない。無理矢理でも子を孕ま せたかもしれない。菊が望まなかったとしてもその子が俺と菊の仲を取り持つことがあるかもしれない。菊がその子を呪っても、俺にとっては菊との大事な子供なのだから持てる全力でその子を慈しんだろう。 しかし菊は子供を孕むことが出来る腹など持っていない。俺と菊を繋ぐものなんて欠片ひとつだって生まれやしない。 今だって俺と菊を繋ぐのは二人の間にある評価がプラスに傾いているからで、もしそれがマイナスに傾けば二人の仲なんて一瞬で絶縁するだろう。俺はそれを恐れていた。綺麗事を立て並べた飯事でいい。それで構わないからこの胸がやっとの思いで拾い上げて包み込んだ淡い(というには些か苛烈な)思いを砕きたくない。そんな少女が書いた詩のような、くだらない感情を大の男の俺が潜めている。知られれば良い笑い者だとしても俺は必死だった。 「今日は泊まっていってくださいな」 要らぬ暴走をしないように、俺がぎゅっと膝を握りしめた時だった。菊は、既によれかけた俺のネクタイに手をかけた。器用な手先は結び目に手をかけ、一瞬でただの一枚布に戻してしまう。 「幸い、寝室は広いようですから」 それはそうだ。ここは俺が菊のために用意した、俺が知る限り最上級のホテルのスイートルームだった。ベッドは最高級のキングサイズベッドで、大人二人が余裕を持って寝転がることができた。 「ねえ、アーサーさん」 媚びるような甘い声がきんきん耳鳴りを起こす。限界まで見開いた目は、そのまま眼球がポロリと落ちてしまいそうだった。 アーサー。お前は本当に、我慢強い男。だった。 |