[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。
俺の世界は極々小規模なものだと思う。会社と弟を主軸にして地球は回っていて、人口は、多くても千人程度のものの筈だ。勿論テレビや新聞からの情報は必要だから、情報収集は毎日欠かさず行っている。しかし、自分の世界と交わらない、そのメディア越しの世界がこの地球に存在する確証が自分にはない。ドラマや映画、暇つぶしに見るくだらないバラエティー番組に出演している人間が、こうして俺が息をして生活をしているように、地球上のどこかで息をして生活しているのだという感覚が、俺にはどうしても理解できなかった。フィックション小説の登場人物でも見るかのような現実味のない、姿形が捕らえられないぼやけた存在だった。
一時期は(といってもちゃんと現実を直視できない餓鬼の頃だが)知り合いとバンドを組んで、世界中を震撼させてみせると意気込んだこともあったが、それも所詮餓鬼のお遊びで、俺は普通に大学生となり社会人になった。こうして仕事から帰ってもすることもなく、食事を摘んで、テレビで電力を無駄遣いするしかないとき、俺はそのことをよく思い出す。そういう日に限って、都合よく音楽番組が垂れ流されるのだから世の中とは質が悪い。画面には平面的な人間が映し出されていき、歓声や歌声がこれ見よがしに放送されていく。経済関連意外の情報にはめっきり弱くなってしまったので、画面に映し出される歌手に覚えは少なかった。 「(このグループ復活したのか……)」 ランキングに昔解散したはずだった歌手が映し出された。懐かしい気がする。 「(何年前だっけか)」 拍手と歓声が起こり、画面の端には誇らしげな顔が映される。朧気な記憶と照り示しても、随分成長しているのが伺えた。 画面は切り替わり、また上位の歌が発表される。独特のメロディーだ。 画面の中は、俺にとってはドラマや映画と変わらない。画面越しの人間と俺が交わることはなく、俺の小規模な地球には、彼らの存在が認識できない。絶世の美女にも、稀代の歌手にも、俺が心奪われないのはそのためだ。存在しない物に精神状態を揺り動かされるのは耐え難い徒労で、虚しいことだ。 手に持っていた缶ビールがずり落ち、零れて、服と絨毯と、夕食が駄目になった。 「―――――っ……」 俺はアイドルに恋をした。 「病気かい?心の」 久しぶりに直接会った弟は、開口一番嫌そうな顔でそう言った。 「ちげぇよ、ばか」 「精神病を患っている人は皆そう言うんだよ。いい病院を紹介するよ」 「だから違うって言ってるだろ」 「それは俺の顔を見てから言ってくれよ」 改めて見直したアルフレッドの顔は、嫌そうなというよりはむしろ哀れみの色を持って俺を見下ろしていた。 「それで、その数秒のビデオが延々と繰り返されてるのは何でだい?」 「俺が見たいからだ」 「何で見たいんだい」 「……」 「おい、君顔が赤いぞ」 アルフレッドは深い溜息を吐いた。何か小声で呟いていたが、それはビデオから流れる歌声でかき消されてしまった。 「君、まさかとは思うけど、彼に恋をしたとか言うんじゃないだろうな」 「ち、違うぞ!ただちょっと歌が好みだっただけだ!」 脊髄反射で反論すると、アルフレッドは苦虫を噛み潰したような、見てはいけないものを見てしまったような、嫌悪感を丸出しにした顔をしていた。思わず言葉に詰まるが、アルフレッドはもう何も言わず半年振りの自室へ踵を返した。背中が俺の存在を否定していたので、俺は弁解も出来ずアルフレッドを見送る。歌手の――本田菊の透き通った歌声だけが永延と繰り返される。 菊は露出の少ないアイドルで、世間に出回っている情報もかなり少ない。不慣れなインターネットを駆使して、集めた情報によると、今回のヒットも、動画サイトを元にネット界隈で広まったのが切欠らしい。たまに見かける目撃情報では、礼儀正しいとか物腰が穏やかだとか、菊らしいものが出回っている。しかし、それまでだ。アルフレッドの言うとおり、俺自身、まさか画面越しにしか存在しないようなアイドル相手の虜になるなんて考えもしなかった。俺がどれだけ菊を知ろうとしても、相手は俺のことなど知りもしない。一介のファンと一括りにされるのが関の山だ。どれだけ菊を知ろうとしても、俺が掴めるのは、どうせその他大勢が知っている情報ばかり。菊は俺とはまた違う地球に住んでいて、俺が住んでいる地球と交わることはない。例え同じ国に住んで、同じ色の空を同時に見上げて、同じ空間の酸素をすっていても、それは異世界の地球なんだ。現に俺達は出会わない。話し合えない。画面越しに何時間見つめ合っても、菊は俺を認めない。 やるせない片思いだった。アルフレッドは半年振りに再会しても、あの会話以来一言も口を聞いてくれないし、俺の手料理にも全く手をつけない。仕事から帰ると、今日はマシューの家に泊まるとだけメモ書きだけが置いてあった。料理は嫌いではないが、色々な要因から今はもう何もする気になれなかった。ベッドにうずくまり夜通し泣いたりでもすれば気は晴れたかも知れないが、あいにくそれほどまでに素直でいられるほど純粋な男じゃない。叶わないことぐらい初めから知っていたし、笑ってしまうほど当然なことだった。アルフレッドの軽蔑や嫌悪も痛いほど分かる。生きているだけでエネルギーを消費する俺は、食事しなければ生きていけないので、コンビニへ行って夕食を買うことにした。 家から二筋向こうにあるコンビニへ足を運ぶ。まばらな客入りに、ぼぅっと立ってるだけの店員。これにいらいらさせられるから、昔からコンビニの利用は少なかった。背に腹は変えられないので俺は苛立ちを抑えて弁当が置いてある棚以外を見ないように真っ直ぐ歩いた。見ない内に随分豊富な種類の弁当が増えたものだ。迷うが、面倒臭いので一番手近なものを掴む。それから、やけ酒のための摘みを買おうと棚を移動する。適当な摘みを掴もうとすると、すぐ横から同じ摘みを掴もうとする手が飛び出した。 「あ、すみません」 小豆色のジャージを着た、眼鏡の、高校生ぐらいの少年がすかさず謝った。 「いや、こっち………こ、そ」 少年の顔に見覚えがあった。見間違えるはずがない。もう何百回とリピートした可愛らしい笑顔、透き通るような声。 「きっ……むが!?」 「騒がないで下さい」 少年の手が叫びそうになる俺の口を押さえていた。厚いレンズの向こうで、真っ黒な瞳が眇められる。無表情で、不機嫌そうな低い声だ。流し続けた晴れやかな笑顔と涼やかな歌声との落差に、俺はひどく動揺する。 「見たところお食事はまだですね。ご馳走します。来てください」 有無を言わさない口調で、少年は俺の手首を掴んだ。手に持っていた商品をすばやくもとの場所に返し、道路の向かいにある安価なファミリーレストランに連行した。常連なのか、迷いのない足取りで店の一番奥のボックス席を選んだ。 「どうぞ」 「あ、ああ」 奥の席を勧められ、彼に出会ってから初めて自分の意志をもてたような気がする。レンズの奥の瞳は眠たげで、幼い顔には表情がない。 「お好きなのをどうぞ」 ジャージの少年と思わしき人物は、俺の正面に座り、メニューを寄越す。ペラペラとめくるが、検討がつかない。馬車引き風や森の番人風パスタってなんだ。 「じゃ、じゃあ、まず紅茶を」 「ここはドリンクバーが初めからついてるんです。私が取ってきましょう」 間居れず、席を立ち、少年ではないらしい彼は店の隅にある一角からポットとカップを持ってきた。注がれた紅茶はまだ薄く、しかし色々な衝撃でからからになっていた自分の喉には丁度いい味だった。ティーバックの安っぽい味はしたが、こんな店でこれ以上の質を求めるのもお門違いだろう。 「で、なんで気付いたんですか」 また唐突な彼の言葉に俺は動揺した。 「やっぱりっ……、本田菊、なのか?」 「芸名か、本名のことかは知りませんが、私の名は本田菊といいます」 淡白に菊は言い切った。本人からの証言に、俺は頭を思い切り殴られたような衝撃を感じた。口をぱくぱくとさせる俺に菊は不思議そうにしていたが、菊は俺がどれだけお前に恋焦がれていたか知らないのだ。初めから、臨むだけしか出来なかった存在が、今目の前で俺と同じ安っぽい紅茶を飲んでいるのだ。強制連行されたときにしっかりと握られた手首は菊に握られた手首で、今口にしている紅茶は菊が俺のために入れた紅茶だ。菊は、それが俺にとってどれだけ価値があるものか知らない。 「今までずっと、頻繁に使用していましたが、あそこでもここでも、私に気付いたのは貴方だけでした」 菊はまた紅茶を啜った。 「出来れば、私が本田菊ということを口外しないでいただけますか。私は、ただ、静かに暮らしていたいんです」 そうして語る口調は平坦ではあったが、態度は真剣で、内容も切実だった。俺は、菊がこんなに近くで生きていたことに動揺を禁じえない。自分のことを殴ってやりたいとも思ったし、今日の夕食を決めた自分を褒めちぎってやりたいという気にもなった。 「……駄目でしょうか?」 何も話さない俺に懸念して、菊は少しだけ不安げに首をかしげて見せた。俺の心臓は高鳴り、呂律すらまともに回らない舌で菊の願いを必死になって聞き入れた。 「よかった……ありがとうございます」 菊は安心して、初めて表情を綻ばせる。ああ不安で、緊張していたのかと、俺はそこで初めて気付いた。薄く笑みを浮かべる菊の顔は、画面越しにみる晴れやかな顔よりリアルで、穏やかで、優しげな印象を受けた。可愛らしさを前面に押し出しているよりも、素朴で自然だ。それでも十分可愛らしく思えるのは、俺が菊に恋をしているからだけではないのは明らかだった。その顔に見惚れていると、菊は俺の変わりに二人分の注文をした。店員は菊には気付かず、気だるげに注文をとっている。小豆色の学校ジャージに瓶底眼鏡の中学生まがいが、まさかアイドルの本田菊だとは露にも思っていないだろう。俺は気付いて見せた。ここの地域に住む、何百人、何千人の人間で、俺一人だけが菊の存在に気付いて見せたのだ。幸福感と優越感が胸に溢れ出す。穏やかな表情になった菊は、注文した料理がここのお勧めだと教えてくれた。そして俺たちはいろいろなことを話した。趣味のことや家族のこと、好みの味やよく行く料理屋。菊はアイドルの顔よりも魅了的な人だった。素朴で自然で、何者にも媚びない雰囲気が凛とした姿勢となって、清い人格を洗い出していたように思える。俺は外食やコンビ二をあまり利用しないので、菊の話はなかなか新鮮で楽しかった。そして菊の話しに出てくる節々に、俺と菊の地球の重なりを感じることが出来て、俺はいっそう幸福感に溢れた。俺たちは出会うべくして、この土地に住んで、出会ったのだという気がした。菊は決して違う世界の住民ではなく、少し足を伸ばしさえすればすぐにでも出会えたはずの人物だった。それが菊の価値を安くしていることはない。むしろそれが俺の思う運命説を一層際立たせて、ラブストーリーの主人公にでもなったような気分だ。 夕食を食べ終わっても、俺たちは話し続けた。何時間も話し込んで、そろそろ話題もつき始めると、菊は俺に自分の携帯番号を書いたメモ書きを預けた。 「お礼に、また食事をご馳走させてくださいね」と、少し照れくさそうに笑う顔はまるで天使だった。涙が出そうになるのを寸で止め、俺もまた自分の番号を菊に渡した。 「改めて、アーサー・カークランドだ。よろしく頼む。綴りは――」 「大丈夫ですよ。知ってますから」 菊の言葉がよく理解できずに俺は菊を見返した。菊はやはり照れくさそうに「私は、あなたのこと知ってましたから」と、笑った。 「私あなたのファンだったんです。高校時代、バンドをされていたでしょう」 それから俺たちは頻繁に、ほぼ毎日連絡を取り合った。短い時間でも、お互いの予定が許せばすぐに会いに行った。俺たちの住む世界は違ったかもしれないが、俺たちの住む地球は極々近くの、唇と唇が触れ合うほど近くにあった。俺たちはそれを笑い話に出来、そしてこっそりとそのことに運命を感じあっていた。 アルフレッドは、俺が楽しげに菊と電話しているのを見て、俺を病院に連れて行くことを真剣に考えているようだ。アルフレッドに菊を紹介する瞬間を想像して、今から愉快でたまらない。 |