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「私と仕事、どっちが大事なの!?」なんて面倒くさいことをいうつもりはない。以前、自分がお付き合いをしていた女性はそういうことを聞いてくる面倒くさい人で、私はそれに間を入れずに「仕事」と答えてしまった。完徹後の、疲労困憊時に聞いたのがいけなかったのだ。普段の理性的な思考であったなら、微笑みを湛えて「あなたですよ」と答えられたはずだ。最近の女性は力強く、私がもらったのは平手ではなく、鼻っ柱をへし折る拳だった。「サイ、ッテー」と言い捨てて玄関に走り去る後ろ姿は、出会った頃の儚げで可憐だった彼女の面影もない。彼女の拳にひれ伏した私は、彼女の背中を追うことは出来なかった。まあ、立ち上がれても追わなかっただろうけれど。以来私の周囲に女性の影はない。というか、それ以来人生狂ったような気がしてならない。死に物狂いで入ったはずの会社も止めてしまったし、どうせ独り身のくせに、見栄で借りた家賃十万の3LDKも引き払ってしまった。正に転落人生、と人は思っているのだろう。しかしそう思っているのは他人だけで、私はむしろ、今の方が充実した人生を送っていると思う。恋人も出来た。趣味に高じた職にも就かせてもらっている。仕事の内容はあまりにマニアックなので、恋人に見せられないのが難点だが、これ以上何を望むものがあるだろう。
一つだけあった。多分人生が狂ってしまった時、私の価値観までも狂わせてしまったのだ。それの矯正をしたい。いや、こう願うことから価値観は変わってはいないのかもしれない。どちらにせよ、今の充実した日々は狂っている。 恋人と呼ばれる人物と一つ屋根の下で暮らすなら、それは同棲と誇称されるべきだろうか。私はいまだに、同居と言い張り続けている。エロゲの原画や同人誌ばかり書いて、なお朝も夜も家に籠もり続けていると、切実に二次元と現実の区別がつかなくなる。もしかすると、隣で眠るこの人も、二人で暮らすこの家も幻なのかもしれない。そう思うことは幾度となくあった。そのたびに触れて確かめて、寄り添えば感じる体温にどれだけ心が安穏に凪いだか知らない。安らかな寝顔にどれほど愛しさを募らせたのか分からない。ああやって何年目かの恋愛を終わらせた私が、もう一度恋のジレンマに身を焦がすとは思わなかった。恋人は私によくしてくれた。気遣ってくれた。愛してくれた。 されどどこを間違ったか、恋人は男だった。 男だから駄目なのではなくて、勿論、そういう価値観の人だっていくらでもいる。だけど私は女の子が好きだった。でももう駄目だ。私はこの人でなければいけない。多分、そう、私は狂ってしまった。白人で金髪で、閉じられた瞼の下は、透き通るようなエメラルド色をした宝石だ。彼に与えられた住居は、聞くと目が飛び出す高額の、高層マンションの最上階。バカ広い寝室に、キングサイズのベッドで二人身を寄せあって寝るのが日常だ。彼は世界名だたる大企業、カークランド社の若社長である。人種が異なる相手の美醜の判断は出来ないが、世間の黄色な声を聞くところ、かなりの美形なのだろう。 男同士の問題に苦悩しなかったわけではなく、初めこそ、寝室は別だった。彼の金に目が眩んでいるのだと悩んだこともあった。感情のままに嫌悪感を吐き出して、彼を傷付けたこともあった。彼の高いプライドのため私が傷つくこともあった。紆余曲折のアップダウンを繰り返して、私達が行き着いたのは紛れもない幸せだった。私は彼に骨抜きだ。メロメロだ。陶酔している。彼にならひどいことをされても構わない。むしろ彼が施してくれるというのなら喜んでそれを受けたいのだ。しかしそれでは、世間との価値観のズレのため生活に支障を来しそうなので、私はこの狂ってしまった価値観を矯正したいと思っている。矯正されても、この思いは変わるはずがない。私はそう信じている。 アーサーさんの腕からそっと抜け出し、寒そうな剥き出しの肩にシーツをかける。沈むような柔らかなベッドから降りて、アーサーさんを残して寝室を出る。エプロンを着けて、朝食の準備をする。アーサーさんの今後の予定は、一時間後に起床して、その二時間後には自家用ジェットでテイクオフだ。帰ってくるのは一週間後か二週間後か。一昨日の深夜に帰ってきたばかりだというのに。自然にこぼれた溜め息を誰が責めるだろう。昨日一日だって、アーサーさんはほぼ寝て過ごして、まともに会話した記憶がない。疲れているのは分かる。分かるけれど、だからといって「はいそうですか」と済ませられるほど淡白な仲じゃない。出来ることなら、一日中抱きしめあっていたいくらいなのに。 「私と仕事、どっちが大事なの!?」なんて面倒くさいことを言うつもりはない。言われた側の心底鬱陶しい気持ちは分かっているつもりだ。第一、もしもそれで「仕事」なんて答えられた日には、私はどうして生きていけばいいのか分からない。彼の鼻っ柱を折る気力なんてないだろうし、「サイ、ッテー」と言い捨てたって行く宛がない。今の私から彼という人を奪ったなら、何が残るのか見当もつかない。そりゃあ、これでも一応仕事はしているのだから、彼と別れたとして細々ながらも生活していけるだろう。けれど彼のいない人生にどんな意味があるだろう。目を閉じて思い描いた先にいるのは、彼と出会う前の自分だ。当たり前の日常が空恐ろしく感じてしまう。会ってたった数年の人物に足らない薄っぺらな人生を送ってきたつもりはない。でも今の私に彼の存在は大きすぎる。例えば私が今毟っているレタスの芯のように、彼は私の色んなものを繋いでいる。 「菊」 「あ、おはようございます。アーサーさん」 振り返ると寝ぼけ眼のアーサーさんが、パジャマ代わりのシャツ一枚で立っている。髪の毛は寝癖でぼさぼさだ。そんな姿も大変可愛らしい。 「もうすぐ朝ご飯出来ますから、顔洗ってきてください」 「ああ……」 船を漕いでいる。まだ半分寝ているのだろう。 「それから下も履かないと、風邪を引いてしまいますよ」 頷いたのか船を漕いだのか分からない風にアーサーさんは返事をする。下半身をぶらつかせながら洗面台のほうへ消えたところをみると、私の言葉を聞けるほどの意識はありそうだ。彼が本当に意識を失うと、本気で手を付けられなくなる。特に泥酔したときのあの傍若無人っぷりをみると、人格破綻者もいいとこ。彼が日頃どれだけ理性的な人間であるか知るようだ。 「菊、おはよう」 「はい、おはようございます」 アーサーさんは、私が朝食を作り終えたと同時にリビングに戻ってくる。ダイニングテーブルに朝食を並べきると、やっと彼からの挨拶を貰った。意識ははっきりと取り戻したようだけど、まだ寝癖がついたままだった。下半身を丸だしにするのは止めているけど、ユニオンジャックのトランクスが剥き出しだ。こんなだらしない姿を彼の部下が見たら、卒倒してしまうんじゃないだろうか。強面の専属運転手さんは、ブリティッシュスーツをカッチリ着こなす彼しか知らないだろうから。 アーサーさんは無言で椅子に座って、目の前のトーストを齧りはじめる。目はどこか虚ろだ。 「お疲れのようですね」 「いいや、そんなことない」 「でもすぐに仕事に行かれるのでしょう? そんな風に仕事ばかりだと体を壊してしまいませんか?」 「大丈夫だ」 私の目はとてもそう言い切れるふうには見えなかったけれど、本人がそう言うのなら反論するすべもない。はっきりと覚醒してからの彼の仕度は早い。朝食を食べ終わり、ものの数分でかっちりとしたスーツを着こなす、見惚れるような英国紳士の出来上がりだ。残った時間をゆっくり過ごせばいいのに、彼はその余った時間分予定を繰り上げて出発する。名残惜しいが、養ってもらっている身で彼の行動に口を出す権利などないのだ。 「気をつけてくださいね」 私は彼の仕事用の鞄を差し出す。アーサーさんはそれを受け取り、「分かってる」と小さく頷いた。すぐに踵を返すと思ったのに、彼は考え込むように私の瞳を覗き込む。なんだろうと私は彼の言葉を待つ。アーサーさんも寂しく思ってくれているなら、余っている時間を一緒に過ごしてくれはしないだろうか。仕事熱心な彼はきっとすぐにでも仕事に向かうだろうが。 「おい、菊。俺に何か隠し事をしていないか?」 「はい?」 「一日中パソコンに向かって、何してるって言うんだ。自分の仕事も教えられないのか」 「アーサーさん?」 私は男の割に背が低いものだから彼に見下ろされるのが常だが、今の彼の目は見下ろすというよりも私を非難して、蔑んでいるように見えた。滅多に見ることはないが、見たことがないわけではない。彼は酷く怒っている。私は逡巡して考えてみるが、彼が怒る理由が見当たらず、そっと冷たい彼の瞳を見つめ返すしかできない。 「俺がいない間にお前は何をしてるんだ?」 再三確認するが、私は夕食の買い物以外に外出することはほとんどない。この家でパソコンに向かって一日が終わるのが普通だ。しかしそれは私と同居している彼が一番知っているはずで、それ以外で彼が怒る理由が見当たらない。彼は誇り高い人柄なので、知らぬ間に彼のプライドを傷付けてしまったのだろうか。喧嘩は、私から折れなければひたすらに続く。けれど見当違いなことを謝罪しても、悪戯に彼を煽るだけでしかない。 「答えられないのか」 私がまごまごとしているのを見て、アーサーさんはますます視線を強くする。彼の望む返答が出来たらいいのだけど、今の私にはそれは出来そうになかった。 「このっ……裏切り者っ……!」 彼は吐き捨てるかのようにそう言い放つと、彼は手に持っていた鞄を投げ出し、私は何事かとその鞄の行く先を見届けた。しかし最後まで見届けることなく、振り上げられた彼の拳が私の頬を打った。彼の強い一撃に、ひ弱な私は逆らえるはずもなく尻餅を着く。口の中に血の味が広がるのは分かったけれど、酷く脳が揺さぶられて、口の中が切れたのだと理解できなかった。 「俺のいない間に、男でも女でも連れ込んでるんだろう!」 彼に殴られたことと口内をきったことをやっと理解できるようになると、彼がもっと信じられないことを口走っているのを理解した。まるで前の恋人に殴られた時のようだった。私があまりの衝撃に立ち上がれないで彼を見上げると、あのときの恋人の冷たい視線と似ても似つかない、激怒の顔がそこにある。床に転がっている私の手首を掴み、無理矢理立たされたかと思うと、すぐに廊下の壁へ叩きつけられた。彼の怒りが力の加減を放棄したせいで、私は痛みに咽た。アーサーさんはそれさえ気にかけず、目を剥いて怒った。鷲掴みにされた手首は彼の握力にギシギシ悲鳴をあげる。彼の勘違いから生まれた激情は彼ばっかり煽って、当の私を置き去りにしていく。私を信用してくれていなかったのが悲しくて、冷静さを失うほどいもしない誰かに嫉妬してくれるのが嬉しい。感情の高揚は彼に加減を忘れさせ、体のそこらじゅうが痛みに悲鳴を上げている。救いを求めて彼を見つめ返しては見るが、彼は完全に怒りに我を忘れていて、私の話など聞く気はなさそうだ。 「お前は会ったときからそうだ。自分のことは何一つ話さないくせに、俺のことは聞きたがる。俺に知られたらまずいことでもあるんだろう。話してみろよ、どうせ俺以外に何人も金蔓がいるんだろ。本気になってお前に貢ぐ俺を心の中じゃ馬鹿にしてるんだろ。俺は騙されないぞ。お前なんかに騙されたりはしない。馬鹿みたいにお前に貢ぐ奴らなんかと一緒になんかするな」 私は彼の瞳を見返す。彼の鮮やかな新緑の色をした瞳は、激情にゆがみ翳っている。彼の誤解を解けずに居た自分を悔やむばかりだ。本来理性的である彼が、こんな根拠のない誤解などでこうも豹変するのは、私が至らないばかりにどこかで彼を追い詰めていたからだ。大企業の若社長として世界中を飛び回る彼は日夜ストレスと戦っている。だというのに、彼から恩恵を受けて充実した生活を送っている私が彼を追い詰めていたのなら、彼の世界のどこに安らげる空間があるのだろう。彼は実はとても孤独で、いつだって人の温かみを求めるような人恋しい寂しがり屋だというのに。彼の瞳は私を見つめながら、私を通り越して、この世に存在しない裏切り者を睨み付けている。私は尋常ではないもどかしさを感じて胸が痛んだ。私と彼は間違いなく愛し合い、思いあう感情すら一緒だというのに、何故彼を追い詰めてしまうのだろう。心が見透かせるようになればいいとは思わない。しかしせめて体程度なら彼と共有したっていいじゃないか。そうすればこんなくだらないすれ違いなど生まれなかった。私の生活は彼以外にはパソコンから繋がる外界しかないのに。 彼は掴んでいた私の腕を引っ張る。半ば引きずりながら、彼は私を寝室に投げ出した。 「いいか、覚えておけ。お前は、」 硬い床に転がる私を冷ややかに見下ろし、アーサーさんはどこからともなく、鎖のついた首輪を持ち出した。うっすらと笑みが浮かぶ唇は、彼の心が安らかだということの証だろうか。 「俺のものなんだよ」 彼は心だけでなく体まで繋いでくれるというのだ。なんて優しい人だろう。鎖でつながれた首は少し息苦しい。 |