久しぶりに、ドイツの体感時間では、何百年ぶりに再会した日本は、少し窶れているようだった。世界会議という名目で集う各国の中、日本はアメリカの後ろにぴったりとくっ付き、誰とも口を聞こうとはしなかった。人形のように、表情を持ちながら石化したように固まる日本を、ドイツは悩ましげな思いで盗み見た。ドイツが仲間として過ごした日本は、口数も言葉数も少なかったが、今のように銅像のような様子ではなかった。乏しい変化に、柔らかな微笑みや恥じらいや、カルチャーショックの驚愕が組み込まれていたのを、ドイツはよく知っていた。戦禍の傷は随分癒えたと聞くが、やはりまだどこか痛むのだろうか。日本は時折、何かを飲み下すように身を強ばらせた。アメリカの質問だけに「はい。はい。」と肯定を繰り返す様は見ていて心苦しい。ドイツが好いていた、母性を感じさせるような柔らかな表情は見当たらない。声の一言でもかけてやりたいとドイツは願ったが、その相応しい言葉がドイツの中に存在しなかった。二人は、昔のように微笑み合いながら語り合えるような仲ではなかった。何か固い壁のようなものが二人を隔て、二人の距離を遠くした。その壁は長い時間のようなものでもあったし、二人を支配する、勝者の影のような者だった。揶揄されるには材料が揃いすぎている二人は、迂闊に近づけずにいた。二人はイタリアのようにのらりくらりと非難を潜り抜けるような技も人柄もない。イタリアを介さない二人の戸惑い様は、目に浮かぶように想像できた。そもそも最後の一人になってまで抗った日本が、裏切り者であるドイツをまだ仲間と呼ぶつもりがあるかどうかすら、ドイツには疑問だった。
「あぁもう!これじゃあ埒が明かないよ!休憩だ休憩!!」 張り上げられたアメリカの声に、ドイツは我に帰った。時間の経過を見るとそれなりの時間が経っているように見えたが、ドイツの体感時間では二回の瞬きに及ばない一瞬だった。多くの苛立たしげな視線に追われ、アメリカは日本を連れて真っ先に会議室を出て行った。 「ドイツードイツー!俺達もご飯食べに行こうよー」 間延びした声を撒き散らしながら、イタリアがドイツの背中に飛びついた。ドイツはそれを引き剥がし、イタリアと並んで会議室を出た。イタリアの鼻歌を歌いながらスキップする姿は、見慣れたものだ。あの頃はそれを見慣れていたのはドイツだけじゃなく、呆れるドイツの隣に、微笑ましそうにはにかむ日本もいた。イタリアは二人の前を上機嫌にスキップし、ドイツの隣で日本は「転んでしまいますよ」とイタリアに心配そうな声を掛けていた。 「ドイツさっきの会議中ずぅっと日本のこと見てたね」 イタリアの発言に、ドイツはまたも我に帰った。 「……そんなことは、」 「みんな気づいてたよ。アメリカなんかスッゴくイライラしてたし」 怖かったぁ。とまた間延びした声をイタリアがあげるが、その声にはどこか力が込められ、暗にドイツの反論をもみ消そうとしていた。自然と鈍くなるドイツの足取りを余所に、イタリアの上機嫌な足取りはどんどんドイツを引き離していく。「転ぶぞ」と心配するのはドイツの役目ではない。ドイツの役割は転んで泣き出したイタリアを叱りつけ、膝を擦りむいたイタリアを背負って木陰まで運ぶことだった。転ばずにステップを踏むイタリアの後ろ姿にかける言葉を、ドイツは見つけられなかった。 「日本なら喫煙室にいるよ」 「……」 「行ってらっしゃい」 「……ああ」 イタリアはレストランに続く角を曲がっていった。ドイツは少し迷いながら、喫煙室に続く角を曲がった。 ドイツも、日本がどこにいるのか知らなかったわけではない。日本は時折アメリカの拘束を抜け出して、ひとりの安息を噛みしめている。邪魔するものじゃないと何人も自粛して日本を訪れないのだ。何かに理由を付けて日本を訪ねたりしている者を数人、見かけはしているが、ドイツはその中に混じろうとは思わなかった。窶れている日本に安息を与えてやりたかったのもあるがそれ以上に、理由を付けてまで会いに行った日本に、高く、厚い壁を感ずるのを恐れていた。だから喫煙室の軽いスライドドアがこんなにも重いのだ。ドイツは重すぎる喫煙室のスライドドアにそう結論付けた。そもそもこの向こうに日本がいることは確定情報ではない。いることが多い、というだけで。そう思うと、鉄より重いスチールのドアは少しばかり軽くなる。ドイツはそれを見逃さず、重いスライドドアを一気に開け放った。 結論からすると、日本はいた。ドアをブチのめした侵入者に驚き目を見開き、声も出ないようだった。驚いている日本にドイツは言葉が見つからず、「喫煙は体に毒だ」吐いた言葉は的外れなものだった。 「……すみません」 日本は素直に煙を擦り消して、手に握り締められていたケースを内ポケットに閉まった。 「その……だな。疲れているように見えた、から、これ以上健康を害するような行為は、……推奨しない」 「お気遣いありがとうございます」 日本はドイツに、丁寧なお辞儀をした。礼儀正しい、他人行儀だとも言える日本にドイツは少なからず傷付いた。うず高い壁は透明ながらもそびえ立ち、二人を圧迫していた。 「それでドイツさん、何か御用でしょうか。随分、焦っていらっしゃるようですが」 ドイツは焦っているのではなく、どちらかと言うならば舞い上がっているに近い。きっと気分が高揚して、収集がつかなくなっているのだ。ただそれも、日本の石のような表情で萎んでいった。アメリカや各国の前でなく、自分の目だけなら、以前のように微笑んでくれるのではないだろうかと、淡い期待がドイツにはあった。それも無残に打ち砕かれ、一層固い日本の表情を見ると、ドイツは固い表情の内で密かに悲しみに暮れた。日本の中の自分の存在に虚しさを感じずにはいられない。 「いやお前と少し、話がしたかった。大戦以来、疎遠になっていただろう」 「……そうですか」 日本は何かを思うように目を伏せ、ドイツと向き合うことなく小さく頷いた。 「お師匠は、お元気おられますか?」 「ああ、会議には出れないが、毎日うるさいぐらいだ」 「それはよかった」 「日本」 「はい」 「お前は働き過ぎだ。もう少し体を労った方がいい」 「いいえ、仕事があるだけマシです。働けるだけ、幸せです」 「しかし、」 「私にはもうそれしか残っていません」 日本が黙ると、二人の百年ぶりの会話はそこで途切れた。ドイツは日本と少しでも話していられたことが嬉しく思ったが、自分の知る日本よりそっけない態度に、孤独を感じた。小さな日本を見下ろし、ドイツは言葉にならない思いを胸中に駆け巡らせた。懐かしい、気の毒だ、悲しい、今更どの面を下げて? あのとき一緒に朽ちてしまえば、こんな苦しい思いをせずに済んだのだろうか。ドイツは懐古趣味を持ち合わせては居ないが、心地よい時代に思いをはせることが多くなった。日本の同じ横顔が、今はどうしても遠い。柔らかな視線はない。光を失った眼が追うのは、イタリアの背中ではなく、堆く聳え立つあまりに頑丈な壁だ。崩れたはずの壁が、形を無くしながらもまたドイツの前に立ち憚る。その先にはあの頃の三人が並んでいた。泥に汚れ、血にまみれていた以前が何故こうも輝いて見えるのだろう。ドイツは眩暈がした。 「……悪夢だな」 覚めようと覚めなかろうと、待っているのは地獄だ。後退は傷付き、前進に安らぎはない。眉間の皺をさらに深くして、ドイツは低く唸った。 「……そうでしょうか」 「ああ、ひどい悪夢だ」 虚しい世界だとドイツは思った。出来ることなら、あの時共に朽ちてしまいたかった。そう願うドイツの思いは、壁に阻まれ日本に届くことはない。換気口に吸い込まれ続けられているのに空虚な部屋にこびり付く煙のように、悪夢は二人の背中に纏わり付く。 |