男の名を、アーサーと言った。私はこの男の名を口にしたことはない。
 我が家の歴史は古いが、それゆえに飛ぶように変わりゆく時代についていき損ねた。事業に失敗し、今も朽ち果てそうな我が家に、道楽であろうか、異国の富豪は金を貸し始めた。予期せぬ朗報。父は喜び、以前にも増して事業に力を入れた。父の勉学も惜しみなく、男の資産も底無しだった為か、初めの失敗が嘘のように家は立ち直り、父の会社は大きくなった。自分より一回りも若い青年を、父は命の恩人だと信頼を寄せ、男もそれに答えるように資金を差し出した。父は男を幸運の使者と呼んだ。家に招くことも幾度となくあり、我が家と男の距離は急速に縮まっていった。
 しかし私は知っていた。男は悪魔だ。両親も使用人も気付かない、私だけが男の正体を知っていた。
 父は間もなく死んだ。工場の視察に行った際、機械が父の上に雪崩れ込み、父は何トンもの機械に頭を潰された。
 私は見た。父の葬式に上等な洋装の喪服を着た男が、父の棺を前にして、父の醜い死に顔を前にして残酷に、顔を歪ませたのを見た。
 男は悪魔だった。私は知った。男のその醜い笑みほど、おぞましいものを私は見たことがなかった。
 親類も乏しく長男もいない我が家に会社を継ぐ者はおらず、父の会社は難なく男のものとなった。私は路頭に迷う覚悟を固めたが、体が弱く病気がちな母がそうなるのは余りに酷だ。私は日に日に追い込まれていった。父の死に際に、あんな、あんなおぞましい笑顔を見せた男をどうして頼れるだろう。男の邪悪な笑みに、私だけが気付いていた。誰もが悲しみに暮れ目を伏せる中、私だけはあの男の正体に気付いた。しかし男は、会社の全権を自分の物にしながら、私達を養った。男は穏やかに、私達を安心させるように微笑み、「あなた方を守るのは、彼の生涯の友人としての義務です」と人の出来た科白を吐いた。母は男の言葉に感激し、涙ながらに男に跪き感謝した。男はそれをやんわりと止めて、「止めてくださいマダム。俺達はもう家族のようなものでしょう」と泣き崩れる母の背を撫でたのだった。果たして男の父親が、私の父と同じくして醜い死を遂げても、あの男があのおぞましい笑顔を向けるかは甚だ疑問だった。私はその男を、父の葬式以来信用出来ず、男の前では始終俯き声を潜めた。何時裏切るともしれない男に、母のように取り込まれてはもう跡がない。今ですら、何故男がこんなにも私達に良くするのか理解できない。
 私は部屋に籠もるようになった。母や使用人は、私が父を亡くしたことに臥しているのだと勘違いしているが、私はただ男と会うことを嫌悪し、部屋に籠もりながら密かに商いについて勉学に勤しむことを男に気取られたくなかっただけだ。しかし男は私に会いに来た。異国の菓子や花を両手いっぱいに抱えて、私を慰めた。「父親を亡くしたお前の悲しみは、痛いほど分かる」男は毎日私を訪れ、物を贈り、そして俯くだけの私を励まし、慰めて帰っていった。私は男が部屋を去った後、部屋の窓から男の車が走り去るのを睨みつけた。そうして自分に言い聞かせた。「あの人は悪魔だ」彼は父の会社が欲しかったのだろうか。我が家の歴史は長い。それが欲しいがために男は父を殺めたのだろうか。私は知っていた。あの父を押し潰した機械は、そう倒れることなどない。不慮の事故にしては、父以外に犠牲者はいない。私はあの男の腹に住むおぞましい怪物を知っていた。それを飼い慣らす男は、その怪物よりも恐ろしい悪魔だ。
 男は毎日私に会いに来た。男には乗っ取った父の会社があったので、訪れるのは決まって夕食頃か、夕食を済ませた頃だ。夜毎に男は私に会いに来る。母が心配しているだの、偶には日に当たらなければ体に毒だのと私を外に誘い出そうとしたが、私は頑なに男の存在を否定した。男の言葉を無視し、目を閉じて俯いた。男はめげずに私に語り掛ける。私はそれが煩わしくて仕方なく、男が、私が男の正体を知っていると気付いたのかもしれないと不安に駆られた。私を外に誘い出し、不慮の事故で私を殺そうとしているのだと男を恐ろしく思った。何日も通い続けている内に、男は説得を諦めたようだった。俯く私の正面に座り、私の様子をじっと観察していた。私はあまりの不快に夕食を戻してしまいそうだったが、男の手前、私は微動だにせず座り続けた。部屋は既に男の手土産の花で埋め尽くされ、花屋でも開けそうなものだ。確認するとその花々はとても貴重で、値段など計り知れないようなものばかりだった。噎せっ返りそうな花の芳香の中、男は私と向き合い続けた。男が何を考えているか私には噸と理解できないが、その不明瞭な認識が余計に恐怖を掻き立てた。その日男は何の贈り物もなく、何も語らず帰っていくようだ。男は席を立ち、やはり俯く私をじっと見つめた。男は二人だけの部屋で顔を近づけ私の耳へ口を寄せた。そして不自然なほど抑え込んだ声で囁く。「―――愛してる」私は恐怖で身を竦ませたが、その一言で弾かれたように男を見上げた。男は既に部屋を出ていく寸前で、私が見たのは扉の隙間、細くなっていく背中だけだった。私は、屋敷から走り去る男の車さえ見ることが出来なかった。私はひどく、父の死よりも、男の言葉に動揺していた。以来男の贈り物も、馬鹿みたいな説得もなくなった。ただ鉛のように重い空気の部屋に、永遠に感じるほど長い時間を二人で過ごす。そして最後に男が帰り際に私の耳元で囁く。まるで禁忌を犯すように押し殺した声で低く、一人言のように「愛してる」と呟いた。増えることがなくなった花はもらった順に萎れてゆき、いつしか部屋を覆い尽くす花はなくなった。私はその内、男の真意を見定めようとするのを止めた。幸い、男は私に告白の返事を請うような真似はしなかった。第一、私は男の言葉を何一つ真に受けようとはしなかった。男が「愛している」と幾ら囁こうが、毎夜惜しげもなく私を訪れようが、私は男の存在を認めようとはしなかった。私にとって男は恐怖の対象以外の何者でもなかった。
 ある日のことだ。男が訪ねて来ない日があった。私は拷問のような時間がなくなったことと、男が私に興味がなくなったことに安堵と希望を見いだした。だというのに、言い知れぬ焦燥感が私を煽り、床に付いた私が眠りに行き着くまではそれなりに時間が掛かった。眠りも浅く、私は漂う意識を感じながら心地よい浮遊感に身を任せた。人の気配を感じたのは、真夜中というよりも早朝近い時間だった。ふと感じた人の気配は、私の意識は浅い眠りからじりじりと覚醒に引きずられ、遂に私は目を開いた。
 目を開きその人の正体を確認すると、私は恐怖のあまり失神で深い眠りに落ちてしまいそうになった。暗闇の中で、男が私に覆い被さっていたのだ。私の頭の横に両手を突き、表情は分からない。一瞬で駆け巡る恐怖は、誰かに助けを求めて私に声を上げさせた。しかしそれも男の手によって阻まれてしまった。男の手に救援を阻まれた私は、恐怖で動転し涙を滲ませる。男は沈んだ声で「すまない」と言った。「驚かせる気はなかったんだ。もっと早く、日が沈む前に来る予定だった」男はすまなさそうに、私から体を起こし、枕元に膝を付く。私は恐怖を隠しきれず、男に怯えながらシーツを胸元に引き寄せて距離を取った。私の様子に男は幾らか意気消沈したようだった。私はそんな男に気遣う余裕なんてない。男は自己弁護をするのを諦め、恐らく男の目的であろう箱を取り出した。「これを渡しに来たんだ」男は箱を開け、中から首飾りを取り出し、「お前に似合うと思って」嬉しそうに呟き、それを掲げた。窓から差し込む微かな月光を目敏く拾い上げ、大粒の宝石をあしらわれた首飾りは、暗い部屋の中で陽の元にあるかのように輝いた。「翡翠だ」宝石に見惚れる私に男は囁く。「あなたの、」緑色に輝くそれを見て、私は呟いた。「あなたの瞳のよう」闇に慣れ始めた視界は、男の表情を汲み取る。私は、はっとした。「……気に入ってよかった」男はそう言ったかと思うと、貧相な私の首にその翡翠の首飾りを飾った。私が何も言えないでいると、男は私の体をベッドに丁寧に倒した。私はまた体を強ばらせるが、男は乱れたシーツを横たわる私の肩までかけ直しただけだった。「今日はすまなかった。ゆっくり休んでくれ」男は立ち上がり振り返ることもなく部屋から立ち去った。私は声を発することを封じられ、男の背中を見送った後、沈むように眠った。やはり、男は悪魔なのだと私は思った。
 朝起きると男が訪れたことを知る者は一人も居らず、昨夜は悪い夢だったのだろうかと私は疑った。しかしそれは大粒の翡翠の首飾りが否定する。あんなものをもらったところで、私には不要なものだ。もっと華やかな、男の隣に並び社交場に出る女性に渡せばよいものを。私は男が訪れるのを待った。以前の花々など足下にも及ばないこの首飾りをなんとかして男に返したかった。男の存在が形として残るものを部屋に置いておくことなど私はごめんだ。しかしその日から、男はぱったりと家を訪れなくなった。私は何日も待った。待てど暮らせど男の姿は屋敷にない。私はひたすら待った。男が現れないことに悲しみすら覚えた。時には涙を流すこともあった。私自身にすら、私の真意がどこにあるのか分からなかった。
 私はこんな薄情な娘ではない。なかったはずだ。父の仇など、愛するような、愚かしい娘ではない。されど私は男を待ち惚けて、見渡しのよい自分の部屋の窓から、男の車の影が見えないかと目を凝らした。私は自分の愚かしさに気付き始めていた。私は男を、以前のように父の仇としては見ることが出来なくなっていた。男は相変わらず悪魔であり、あのおぞましい笑みは今も脳裏を離れることはない。しかしそれと同じように、あの夜の男の表情を私は忘れられずにいた。
 男は今日も現れない。戸口で光る大粒の翡翠だけが、私と男を繋ぎ留めた。