「バカですね」
 菊は酷く冷めた目でそう言った。菊は畳に横たわる俺を見下ろしてもう一度言った。
「バカですね」
 そんな訳有るか、と俺は菊を腹立たしく思った。馬鹿なわけがあるか。菊ほど年寄りではないが、これで相当な老成だ。知識深さも、思慮深さもきちんとある。
「バカですね」
 菊はとことん俺を蔑んだ。それが世界の常識であるように、菊は俺を見下した。俺はそれに心底腹が立って、目の前が真っ赤になった。胸が熱くなり、火花がぱっぱっと散った。何で、お前はそんなに冷静なんだ。俺は腹が煮えくり返って、今にも菊に飛びかかりそうになった。しかし体が動かなかった。体がだるくて、力が入らなかった。頭が痛い。そこにもう一つ心臓が在るみたいに、ずきん、ずきん、痛んだ。声も出せなかった。口から出すことが出来るものは、音の大きい、ひゅーひゅー音の鳴る息だけ。俺は酷く衰弱していた。菊にもそれは分かっているだろうに、手を差し出して、助けてくれるようなことはない。無慈悲だった。
 俺はそれにも腹が立った。今の俺に菊が施せるものなどない。しかし逆効果だったとしても、顔を青ざめ、俺を抱き上げ、声を掛けるぐらいなら出来るだろう。それなのに、菊は相変わらず軽蔑的な視線で俺を見下し、バカだバカだと罵るのだ。よもや、これが恋人に対する行為だろうか。愛を語り、体を寄せ合って夜を明かす恋人に対する、言葉だろうか。
「バカですね」
 俺は酔っていた。どうしようもなく酔っていた。吐くまで飲んでしまおうと思ったのに、酒場の店主が勧めてくる酒は甘い、アルコールの低いものばかりで、ろくに酔えやしない。ふざけろ!と俺は叫んだと思った。どいつもこいつも、俺の邪魔ばかりする!と、客を気遣ったなんの罪もない店主を怒鳴りつけたはずだ。俺は興奮状態のまま強い後悔に襲われた。こうしてちょっとの酒でなくしてしまう自制心のせいで、俺は菊に軽蔑されるのではないのだろうか。でろでろに酔っ払い、例によって積み上げられたゴミ袋の上で寝ていた俺を回収したのは、やっぱり菊だ。いくら待っても帰らない俺を、菊は探しに来てくれたのだ。菊は二日酔いで悲鳴を上げる俺を甲斐甲斐しく介抱した。吐き気のするときは背を撫でてくれた。菊は優しい。慈悲深い。そんな菊に軽蔑されたり冷たくされるのは、やっぱり、俺が悪いからだろうか。
 二人は、初めはひどかった。泥酔して自制心が効かなくなった俺が、深夜菊の家に押しかけ、好きだ愛してると喚きながら、混乱している菊を抱いたのだ。菊はぐしゃぐしゃに泣いて、嫌だ止めてと俺の胸を突き飛ばしたが、俺はそれも無視して、菊の耳に愛してると繰り返した。
 菊も、いや菊の方が辛かっただろうに、菊は二日酔いで悲鳴を上げる俺を介抱した。俺は酷い吐き気と頭痛で、昨夜のことを夢か何かとしか思っていなかった。菊を犯す夢を見るのは珍しいことじゃなかったから、きっとそれも夢だったのだろうと自己完結した。
 酷い奴だな、と知り合い全員に言われた。容赦なく殴られもした。仕方のないことだ。菊を愛していても、俺は非道いことをしたのだ。
「バカですね」
 しかし、俺よりも非道い奴はこの世に何人もいる。皆、菊の優しさや慈悲深さに騙されて気づいていないが、菊は俺の数倍は非道い奴だ。だぁれも気付いちゃいないが、あいつは本当に、非道い奴なのだ。
「忘れたんですか。私たちは、国ですよ。人ではないのです」
 菊は冷静だった。冷静だが、怒っていた。畳を真っ赤に汚されたのが、気に入らないのだろう。状況は、二人の初めに似ていた。しかし初めてでない分、菊は冷静で、怒っていた。やっぱり自制心をなくした俺が、深夜菊の家に押し掛けたのだ。菊は少し吃驚しただけで今度は何だとばかりに顔をしかめた。俺はそれに腹を立てて、怒った。暴力も振るった気がしたが、今は菊よりも俺の方が重傷だった。
「こんなことをしてもね、無駄なんですよ。私たちはね、駄目なんです」
 そうだなぁ、と俺は思った。菊は思慮深い。冷静で、保守的だ。快楽主義者で、痛いことは大嫌いなのだ。面倒事は大嫌いな事なかれ主義だ。それでも深夜に俺を回収したり、衰弱している俺を介抱したりするのは、菊が俺を愛しているのと、ちょっとした親近感があるからだ。それから、俺たちは病院に掛かれない。どんな酷い風邪も怪我も、医者には治せない。俺達は人間ではないから。
 俺達は、愛し合っていても、争わなくてはいけない時がある。それが国民の意志だから。どれだけ逃げ出したくても、どこにも行けない。俺達の居場所は世界地図にはっきり示されているから。俺と菊が、いくら二人きりになりたくても、行く当てなんてない。俺達の居場所は未来永劫、地球だけだ。そこ以外に居場所なんてない。
「バカですね」
 菊の言葉に俺は頷こうとした。無理だ。体が動かなかった。菊の体には俺と揉み合った跡が幾つも残っていたが、それでも俺の方が数倍酷い。菊の明日は、俺の介抱で大変だ。俺のすぐそばに放り出された拳銃を、菊は忌々しげに蹴り飛ばした。
「そんなことをしても死ねないのに」
 そうでしょう。イギリスさん。日本の呆れた声に、俺はそうだな、と思った。