男の来訪は突然だった。聞いた話では男はあの日、あの夜以来男の故郷に帰っていたらしい。大陸を間に挟んだ男の国は余りに遠く、来るにも帰るにも、私には想像出来ないほど長い船路なのだろう。私は母から男のことを聞いた。今日、男を乗せた客船が港に着くというのだ。母は私にそれを迎えに行けといった。慈愛いっぱいに微笑んだ母の頬は痩けていて、持病が今も母を蝕んでいるのは見て取れた。私は一刻も早く男に翡翠の首飾りを突き返したいと願っていたが、そんなことのために何時迎えが来るとも知れない母を置いて男を迎えに行くなんて、酷く出来の悪い駄洒落に聞こえる。私は母の申し出を断った。母はどうしても男を迎えに行かせたいらしく、物腰穏やかな撫子に似つかわしくない強い口調で私を窘めた。母がこんなにも私に言い聞かせるなら、きっとそれに見合った理由があるのだと私は自分に言い聞かせ、用意された車に乗り込んだ。そしてその中から離れていく屋敷を見上げると、母は門の側に立ち、穏やかに手を振っていた。母は負い目を感じている。男の来訪がなくなってからというもの私は、病気がちな母の看病に付きっきりで、母は気心の知れた使用人にいつもその心苦しさを語っていた。年頃の娘らしく、着飾り、華やかな社交の場に出掛けて欲しいと思っているのに、心優しい娘に育ってしまったばかりに、死に損ないの婆に付きっきりになって、私が可哀想だ、と。私は私で、母にそう思われていることが心苦しくて堪らない。母は唯一の血縁だ。それに縛り付けられたとして、何を苦痛に思うことがあるだろう。馬車に揺られる窓の外は、私の心情を映し出したような重い曇り空だった。不安や苦痛をどうしても取り除けない私は、翡翠の首飾りをしまってある箱を強く握りしめた。こんなことで、これを男に返せるだろうか。男の巧みな話術に丸め込まれ、またあの夜のように、男に首輪を着けられてしまうかもしれない。長い間馬車に揺られると、その内重い雲から雨粒がこぼれるだした。私が港に着く頃には一面水浸しだった。付き添いに傘を差してもらいながら、人混みに目を凝らす。異人が多い港と言っても、男の晴れやかな金糸の髪は直ぐに見つかりそうなものだ。しかし雨足が一層大きくなっても男の姿は見当たらない。私は男を見つけ出すことを諦め、馬車に乗り込み、家路へ着くことにした。
 母が死んだ。母を看取ったのは、私ではなく、こともあろうに遂に港で見つけることができなかった、あの男だった。門を越えてまで私を待っていた使用人の言葉を聞いたとき、私はなんと質の悪い冗談なのだろうと、その使用人を厭らしく思った。しかし使用人の様子に、ただならぬものを感じ取った私は、その場から転がるように母の寝室まで飛んでいった。ほんの数時間前と変わらない慈愛に満ち溢れた母の微笑みがそこにあり、違うことと言えばその微笑みがもう動くことがないこと。私は母の枕元に立つ男に目もくれず、母の亡骸にすがりついた。悲鳴のような泣き声を屋敷に響かせ、私は広い世界で一人となった。私が泣き叫ぶ間男はずっと私の肩を抱いていたが、私はそのことには気付くこともなかった。それでよかったのだ。動転ついでに男を糾弾しても、やはり男の思う壺だ。母の死に際に、男はどんなおぞましい顔を見せたのだろう。何にせよ、この家に残るのは弱い私一人となった。私も近い内に不慮の事故で死んでしまうだろう。母の葬式に訪れる、見慣れた顔や、初めて見る顔に深く頭を下げながら私は考えた。読経が済まされ、屋敷から人は去っていった。母の遺体が横たわる和室に、親しい友人が訪れるだけだ。そこに男の姿はなかった。深夜まで夜が更けると、屋敷の中には私と母しかいなくなる。エレキテルの光では眩しかろうと、部屋に灯るのは数本の蝋燭だけだった。おどろおどろしい光景にも見えただろうが、僅かな空気の流れにも揺らめいてみせる温かな光源は私を宥め、私は初めて、布団に横たわる母を、落ち着いて見ることが出来た。母の死に顔は穏やかで美しい。これがエレキテルのはっきりとした白い光だと、母の醜い箇所が浮き彫りになり、やはり私は冷静でいられなかっただろう。母の死因は、闘病生活の疲労から、衰弱死だそうだ。記憶に残る醜い父の死に顔と比較すると、やはり母の死に顔は美しかった。こんな綺麗な顔で死ねるなら、いっそ母と取って代わってしまいたい。こんな家に一人残され、私の葬式を上げてくれる者などいるだろうか。悲観的な未来を脳裏に描くと、そこには男があのおぞましい微笑みで立っている。やはりあの男は悪魔なのだと私は思う。母の命を奪うどころか、死に際ですら、私は男に阻まれた。母の遺言すら、私は受け取ることが出来なかった。そして、かわりにそれを受け取ったのがあの男などと、下手な悲劇として流せば、それなりの涙は誘えるのではないだろうか。最後私は殺されて、救いのない結末を迎えるのだろう。笑いがこみ上げてきそうだった。抵抗虚しく、この姓が持つ物を全て男の物となってしまうのだろう。不意に私の名前がよばれ、慣れない手つきで襖が開けられる。大きな空気の流動に蝋燭の儚い火が揺れた。襖の先には男がいて、私の名前をもう一度呼んだ。「一人にしてすまなかった」私は答えず、ただ首を振った。男にそばに居る恐怖に比べれば、一人で孤独に震えている方が心安らぐ。男は上履きを突っかけたまま畳に上がり、私の隣で胡座をかいた。「つらいだろう。何かあれば言ってくれ。出来る限りのことはする」「……お気遣い、ありがとうございます」「これからどうするつもりなんだ?身寄りはあるのか?」「何人か、遠縁の方が申し出てくれております」「養子か?」「まぁ、似たようなものです」男はそうか……と呟き、少し黙った。そうすると男は私の頬に撫でる。「俺はこの人に、お前を任せられた。だから俺にはお前を養う義務がある」今更になって、男になんの義務があると言うんだ。私など、最早娼館に売られたとて文句も言えない。私は男を見た。男は真剣な顔をしていたが、母の死を悲しんではいなさそうだ。葬式に来なかったことよりも、私を一人置いておいたことを謝罪するような男だ。当然と言えば当然なのだろう。「遠縁の、昔馴染みの方と、婚約することになるだろうと思います」すると会社は男ものだとしても、家は男のものにはならない。相手方の家も良い噂はあまり聞かないが、男よりは何倍もマシだ。父の仇と母を見殺しにしたこの男の言いなりになるぐらいなら。私は目を伏せて母を見つめた。母が死に際に何を語ったのか男は話してくれない。おそらく、男が私の後見人となるだろう。男を信用しきっていた母が男に語ることなど高が知れてはいるが、母が男に私を任せたというのなら、何故男はそれを話さないのだろう。母の遺言に逆らうことは出来ない。きゅ、と膝の上で裾を握り締める。ぐるぐる、ぐるぐる、目が回りそうだ。足元から地面が崩れ落ち、今にも奈落の底に堕ちてしまいそうな気がした。地獄の淵に手をかけ、必死に救われようとする私を、男はあのおぞましい笑みで蹴落とすのだろうか。体を萎縮させた私の肩を男は抱いた。母にしたように、私を懐柔しようとしているのだろうか。もしもそうなら、そんなことは無駄でしかないと、男はいつ気付くのだろうか。「愛してる」嘘だ。この期に及んでまでこんな下らない戯れ言を繰り返す男を私は心底軽蔑した。男が毎晩私の元へ通い続けていた頃のように、私の耳元へ唇を寄せ、禁忌の呪文を唱えるかのように囁く。まるでここがあの頃の私の自室であるかのように、隣に横たわる母など存在しないかのようだ。それほどまでに、男の美しい、あの翡翠のように煌めく瞳は私しか映さない。「お前を、愛しているんだ」「……御冗談を」私は男の胸を押し返す。「愛してると言っているんだ」私の言葉をはねつけ、男は確かな口調で強く呟く。胸を押し返すことも出来ないよう、男はまた強く私を抱きしめ、低く「愛している」と囁いた。私は思わず助けを求めては母を見た。母は青白い顔で寝転がっている。男は私の頬を撫でた手で顎をつかみ、視線を無理矢理引き戻した。二つ並んだ男の翡翠の玉に、表情を無くした私の顔が映る。それの、なんと美しいことだろう。断っておくと私は辺鄙なナルシスチズムなど持ってはいないし、お世辞にも女として魅力的な体を持っているわけではない。
 そうか男は、私を愛しているのか。
 私は確信した。男の目は、私をこの世で一番美しい女として映しているのだ。男は私を愛していた。毎夜囁かれた睦言も、私にものを与えた男の思いも、両方、正に真実だったのだ。
 男は私を手に入れたくてしかたがないのか。それほどまでに、私を愛しているというのか。今までずっと、私を手に入れるためだけに、男は我が家に近づいてきたのか。父を殺し、母を殺し、遺言まで奪うほど、私を愛しているというのか。なんと滑稽な愛だろう。愛故に私を追い詰め、愛故に私を地獄に追いやるのか。私の胸に乾いた笑いがこみ上げてきた。愛されたことがないから、愛し方など知らないのだろう。私を傷つける方法しかしらないのだ。物を与えるしか、愛す方法を知らないのだ。親の愛を知らぬから、私の悲しみを理解できないのだ。なんと哀れな男だろう。悲劇だ。私などよりよほど、悲劇だ。「………ふ、」私は溜まらず笑い出した。「ふふっ、ふふふふふ、あはっあははは、あはははは」男は壊れたように笑い出す私を静かに見下ろした。壊れたカラクリ人形のようにケタケタ笑い転げる私ですら、男の目には愛しい女として映っているのだろうか。最早逆らう気力などない。私の笑いは、男が私の唇を塞ぐまで続いた。糸が切れたかのように体中の力を失った私は、その瞬間から男の物となった。