今日も眼の下の隈がひどい。洗面所の鏡で確認すると、黒ずんだ箇所は昨日よりさらにくっきりとしていた。すると貧相な顔はまた幸薄そうになる。まさにくたびれたサラリーマン。ストレスで禿げないように気をつけよう。デスクに戻って、またキーボードを叩き出す。あともう一時間もすれば終わりそうだった。朝日が昇り始めていて、ビルとビルの合間から太陽が見えた。見慣れた光景だったとしても眼に沁みた。滲んだ視界は涙じゃない。ちょっと疲れてるだけだ。うん、きっとそう。ああまた仕事押し付けられちゃったよもう。溜息ついても答えてくれる人は居ない。遅くまで残る人はちらほら見えるけど、徹夜となるとぐんとその数は減る。ブラック会社じゃないのに、なにこの扱い。サービス残業じゃないからちゃんと残業代はもらえるけど、なんだか釈然としない。ここの人達は私のことをロボットだと勘違いしてるんじゃないか。もっといい扱いがあっていいと思う。
出勤時間になると、人がだんだん溢れてきて、いつもの賑うオフィスに変わる。今日は昼に会議があるから帰れない。黄色い声はフランシスさんがやってきた日からずっと騒がしく、耳にキンキン響く。徹夜明けの脳味噌には酷だった。欝だ死のう。目の前のパソコンを呪っていると、隣のデスクの人が「お疲れ様です」とコーヒーを入れてくれた。やっぱ生きようと思った。 フランシスさんが出社してくると、予想通り耳を塞ぎたくなるような叫び声がこだまする。後ろに何人も可愛い女の子はべらして高そうなスーツを着くずしている。着くずしているのにだらしなく見られないのは、その長い足のためですか。照明に反射する金髪のおかげですか。私がすると、どうやったって「あ、忘年会ですか?」な仕上がりだというのに。やっぱり外人は違うなぁ、としみじみ眺める。オフィスに入ると、フランシスさんは私の方を向いてひらひら手を振った。私もそれにへらりと笑って返す。フランシスさんは女の子たちにもバイバイと手を振って、私のデスクへ足を運ぶ。 「菊ちゃん、今日も徹夜?」 「はい、そうですが、何か?」 斜め上から話しかけられた声を見上げると、フランシスさんが苦虫を噛み潰したような顔をして立っていた。見たことがない剣幕にちょっとビビった。何か悪いことをしただろうか。私と一緒にいて、ホモ疑惑がかかったことに気付いたか。でもそんなこと言われたってこっちだって被害被ってるんだから、責められる理由なんかないし、あ、相手が私だから怒ってるのか。きっと別に本命でもいるんだろう。 「この前も徹夜じゃなかった?」 ずい、と一歩踏み込んで、フランシスさんは私に詰め寄る。相変わらず顔が近い。私は戸惑いながら「え、ええ、まあ、そうですけど……」と答える。フランシスさんは一層表示を険しくしたかと思うと、女の子がころっといってしまいそうな憂い顔で、目の下に浮かんだ隈を親指で撫でた。ぞわぞわ、と首筋の後ろからさぶいぼが浮き出す。だから、そういうの女の子にしてくださいよ。なんて言えない。こんな美形を目の前にすると、私みたいなフツメン(そう思いたいおっさん根性)はフランシスさんがする事に文句を言ったりするどころか、喋ることも許されないような気がする。てゆうかこれってセクハラなんだろうか。ばっかだなあ、こんなおっさんにセクハラするぐらいなら、女の子たちにすればいいのに。フランシスさん相手なら胸やお尻を触られたって、むしろ喜ぶだろう。フランシスさんの行動に(ビビって)動けないでいると、フランシスさんは「今日、菊ちゃんは定時ね。それから、明日はお休み」と、大きな声で宣言して自分のデスクに帰っていった。口を挟む隙もなく、フランシスさんは自分のデスクに戻っていく。気を使ってくれたんだろうか。後でお礼を言って、コーヒーの一杯でも奢ろう。フランシスさんって、優しい人だ。じんわり感動してると、ひそひそと聞こえる複数の声。訂正、やっぱちょっと迷惑だ。 昼からの会議が予想外に長引いた。昼食も食べ逃して、いまに胃袋が消失してしまいそうだ。非常階段で冷たい風に当たりながら、苦々しいコーヒーで空腹を誤魔化す。胃が焼けそうだった。大きな深呼吸を二三繰り返して、脱力。頭は冴えない。そりゃそうだ。徹夜に、ぷち絶食。僧にでもなろうってのか、私は。このままじゃ煩悩の消失すら危ぶまれるぞ。要領のいいほうではないし、頭の柔らかいほうでもないし、勉強は出来たが頭はいいほうでもない。フランシスさんのように天に二物も三物も与えられた人も居れば、自分のような人種も居る。悩ましいことだ。会社も上司も、それをよく心得て欲しい。デスクに戻り、またパソコンと格闘し始めると、軽快に肩を叩かれる。 「菊ちゃん、ほら、もう定時だよ」 「……ええ、でも、まだ仕事が残っていますし……」 「納期まだ先でしょ。いいワインが手に入ったんだ。飲みにいこうよ」 笑顔が眩しい。これがイケメンビームってやつか。思わず目を細めると、フランシスさんはにっこり笑って「じゃあ、お兄さん先行って待ってるから」と言い残して去っていった。待ってるってどこですか。なんて、朝みたいに口を挟む隙もない。てゆうかまだ十五分前なんですけど。改めてパソコンに向き直ってなかったことにしておこうかと考え出す。そりゃ私は行くなんて一言も言っていないけれど、断りもなく無視するのも失礼な話じゃないか。相手はイケメン、エリート、ちょっとバラ族っぽいけど、こんな冴えない私に気遣ってくれる優しい人だ。その優しさに恩を仇で返すような行為は許されるだろうか。ぐるぐる考えちゃう。しょうがない。小心者なもんで。 ……だからどこで待ってるんだよ。これだから外国人は!いっつも自分の都合ばっかり押し付けやがって!罵倒出来るのは心の中だけだ。お誘いを無視するなんて出来ませんよ。ええ、小心者ですから。尻の穴も心配だけど、やっぱり、ねえ。誰に言い訳してるんだか分からない事を繰り返して、早足で出口へ向かう。ああ、なんか逃げてるみたい。後ろめたいことしてるみたい。ちゃんと定時になってから抜け出してきたのに。きょろきょろと辺りを見回すが、女の子の黄色い声もなければ、咽返るような香水の臭いもない。とうとう外に出るまで見つからず、途方に暮れてしまった。しかしすかさず鳴らされるクラクション。フランシスさんが窓から身を乗り出して、いつものように手を振っている。 「はは、フられちゃったかと思った」 「いえ、そんな……」 どんな高級車に乗っているのかと思ったら、案外普通の車だった。外からみると相当カッコ良く見えたけど、どうやらそれも外人マジックらしい。家の倉庫の奥で眠って久しい、廃車寸前のオンボロ車もフランシスさんが乗ると高級スポーツカーに変身するのだろうか。隣に並ぶのが忍びない気がして、俯く。無言にすら耐え切れずに必死になって話題を探す。 「あ、あの、今日はどこに連れて行ってくれるんですか」 「俺の家だよ」 「え!」 「大丈夫、変なことなんかしないよ。……それとも、期待してた?」 「め、めめ滅相もない!」 ぐっと顔を近づけてくるフランシスさんに、顔の前でぶんぶん手を振る。フランシスさんは、はははと軽やかに笑った。冗談だったらしいが、この人が言うと冗談に聞こえない。というか運転中に脇見をするなんてなんという図太い神経なんだ。その後はフランシスさんの独擅場だった。私は話を聞いている振りをしてところどころで頷く。よくまぁこうぽんぽんと言葉が出てくるもんだと感心する。 「それからさ、お兄さん漫画とかも大好きなんだよね」 「え、そうなんですか?」 「そうなんだ。続きが気になっちゃって買うのはいいんだけど、買いすぎちゃって生活費がなくなっちゃうとかザラにあったね」 「意外ですね……」 「菊ちゃんは?漫画とか読むの?」 「はい。そこそこ」 そこそこどころじゃない。小さな頃から集め続けていまやその量は一部屋占領している。が、そんなこと告白するとドン引きされるのは今までの経験上まるっとお見通しだ。日本のヲタクを舐めるんじゃない。私の思惑を他所にフランシスさんは嬉しそうに笑った。 「せっかく日本に来たって言うのに、全く漫画の話出来なくてやきもきしてたんだよね!俺と仲良くしてくれる人は、漫画なんて読まないからさ」 ……ま、眩しい。眩しすぎる。この人は天使か何かか。今まで眩しいなんて使ったことないぞ。しかしこれが眩しいってことか、キラキラしてる。すごい、キラキラしてるよ!なんという大天使ラファエル。……ラミエル?どっちでもいいか。 「はは、光栄です、あ、信号変わりましたよ」 フランシスさんは今までの倍以上のスピードで漫画やアニメのことを話し出した。私としてもそっちの方が何倍も楽しいが、話の夢中で前を向こうとしない。ふざけんな。命の危険を感じずには居られなかった。いのちをだいじに!と思わず言うと、フランシスさんは「ガンガンいこうぜ!」なんて冗談めかした返事をした。今まで以上に冗談に聞こえなかった。母さん、私はもうすぐあなたの元へ行ってしまうかもしれません。 |