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 ここの所、アーサーは毎日のようにコンビニへ通っていた。利便性で言えば、極めて低い。経済的に言っても、極めて悪い。帰宅途中のちょっとした寄り道というには、すこしばかり、遠回りが過ぎる。それでもアーサーは、気が付くとそこに足を運ばずにはいられない。そして何時間かそこに居座らずには居られない。狭い空間で有り難いことに、週刊誌が豊富で、しかも立ち読みが許されるので、手持ち無沙汰になることはない。手持ち無沙汰というが、訂正すべきだ。店員に不信に思われずにすむ、と。最後に菓子を数個、または飲み物を買うだけで、どれだけ時間を潰そうが、店員が胡散臭さそうにアーサーを盗み見ることはない。数日通うと、既にアーサーを特に意識することなく、自分の仕事をこなして行く。
「(ほんだ、)」
 しかし店員を意識しなくとも、アーサーは店員を意識していた。
「(ほんだ、)」
 アーサーの目的は、週刊誌でも無ければ飲食でも無い。時間を潰すことですらない。本田、という店員だ。普段の、冷静なアーサーなら鼻で笑うだろう。アーサーの今の状態を冷静などとは言えない。そうでなかったとしても、やはりアーサーは異常だ。アーサーの片手には、携帯が握られている。カメラの質が良い最新機種に買い換え、シャッター音を極限まで下げ、被写体は、本田だ。本田とは要するに、アーサーを意識しない店員だ。アーサーは商品棚の陰に隠れ、携帯には不必要な機能を有するカメラのズームを使い、本田の写真を撮った。盗撮は犯罪だ。その意識を持ちながら、アーサーはかしゃ、かしゃ、とか細いシャッター音を繰り返す。横顔、後ろ姿、目元、唇、切りそろえられたもみあげ、きっちりボタンの閉じられた首もと。ほぅ、アーサーは熱い息を吐く。抑えきれない感情の前では、常識や罪悪感などはないも同然だ。倫理、道徳、糞喰らえ。毎日毎日、欠かさず本田を観察し続けると、最早常識は麻痺している。本田。アーサーの体の全てはその一つのために動いている。
 もうそろそろだ。アーサーは時間を確認しつつ、本田を盗み見る。ちょうど替えの店員がやってきたところだった。
「(気安く、声、かけんじゃ、ねえ!!)」
 もう何ヶ月も通い続けているアーサーでさえ、本田に声を掛けてもらえるときは、「いらっしゃいませー」「合計……になります」「ありがとうございました」に、最近やっと「いつもありがとうございます」が加えられたぐらいだ。たかがバイト仲間というだけで、本田の肩にまで触れて、生意気な。入れ替わりに本田はスタッフルームに消えていった。本田のことなど、何も知りやしないくせに。アーサーは舌打ちをする。交代のバイトも、こう毎回となると慣れたのか、アーサーを見ようとはしなかった。見ると、アーサーの鬼のような視線に殺されそうになるのは目に見えている。窓の前を本田が通り過ぎるのを確認して、アーサーは手に持っていたポルノ雑誌を乱暴に戻し、足早に店を出た。数メートル先を、本田が歩いている。アーサーはその後ろ姿を追い掛けた。手にはしっかりと、最早電話の役割を果たしていない携帯が握って。コンビニから本田の家までは徒歩で約五分二十五秒掛かる。本田は防犯のなっていない安っぽいアパートに住んでいる。本田は一人暮らしだ。自炊をしており、買い物は二日に一度か三日に一度で、少なくとも本田の手料理を食べにくるような間柄はいない。洗濯は、三日に一度。日が暮れるのが早くなったので、本田は家に入ってからすぐに洗濯物を入れる。下着の種類は五種類だ。よくあるストライプ柄の下着の頻度が高い。お気に入りなのだろうか。プライベートの意識が高い本田は、暗くなるとすぐカーテンを閉める。アーサーはそれを見届け、二十分掛けて駅に向かう。駅を二三過ぎ、十分ほど歩いて、やっと家に着く。こう毎日続けると、かなりの労力だが、本田への愛の前では、それも些細なことだ。アーサーは駆け足になった。今日は、良い写真が撮れた。早く現像したくてたまらないのだ。壁一面に貼られたコレクションに、きっと引けを取らないものになるだろう。ほぅ、アーサーはまた熱い吐息を漏らした。

 例えば、ドラマや映画、ドキュメンタリーなどのストーカーの部屋を想像してみると良い。アーサーの部屋とは、当にそんなふうだった。壁一面に貼られた、毎日幅を増やす写真。観察日記、未来日記。
 知りたい。アーサーは本田を知りたくて溜まらないのだ。笑顔が知りたい。泣き顔が知りたい。怒った顔が知りたい。全部写真に収めて、記録して、本田という人間が全て分かってしまえるほどにしたい。傷ついた顔が見たい。幸せそうな顔が見たい。感情に押しつぶされた顔が見たい。快感と激情にまみれた、屈辱と混乱で気を違えた顔が見たい。愛や恋などの感情を通り過ぎて、別の感情になっているとしても、やはりアーサーには本田が恋しい。愛しい。ホンダは毎日、どんなものを口にするのだろうか。何が好きなのだろう。家以外での食事は一人だろうか。それとも別の誰かと食べるのだろうか。知りたい。まだまだ足りない。自分がお前を好きだと知ったら、本田はどうするだろう。キスをしたらどうなるだろう。突然襲ったり、したら。
 だめだ。想像するだけで、たまらない。ぞわぞわと全身を駆け巡る興奮にアーサーは身震いする。知識欲とも恋愛感情とも行き違えた、外道な感情だ。しかしそれでも、アーサーは本田を知りたいとばかり考えていた。
 この感情や欲に、名前を付けて、理詰めで囲んで、額縁に填めるなんて、それこそ無意味だ。徒労に他ならない。異常だからなんだ。倒錯的だから、どうしたっていうんだ。そんなものは二人以外の人間が無理に枠にはめ込めただけ、てんで無価値。世界は二人だけでいい。アーサーと、本田だけで十分だ。
 ほぅ、アーサーはもう何度目か知らない熱い溜め息を吐いた。ぞわぞわと駆け上がる快感に身を震わせる。記憶にある本田の声を繋ぎ合わせて、アーサーと呼ばせる。純愛と言えばそうだが、世間から見れば変態のストーカーだし、本田から見てもそうだろう。しかしアーサーはそんなことにも気付かず、日々本田のために色々なものを浪費していく。そんなとんでもない徒労に気付かず、盲目的に本田を追い求めていく。それこそ、夢のような日々に違いない。事実、アーサーの生活は本田を追い掛け回すようになってから上がり調子だ。定期試験の結果も上場、生意気な弟も最近は大人しい。喧嘩は連戦連勝だが、そもそもこれは負けを見るような真似をするぐらいなら死んだ方がましだった。昨夜も本田の家から帰る途中、ヤンキーに絡まれたのを蹴散らしたのだ。気分爽快。アーサーの気分は晴れやかだ。これに本田を追いかける甘やかな痺れを加えると、そこはもう天国と変わりない。愛しい本田の笑顔を思い出すだけで、肩は風を切って進む。アーサーは沸き立つ充足感に幸せを感じずには居られなかった。早く、本田の下へ。校門を遠目で見ると、数人の人だまりが出来ていた。昨夜のヤンキーが返り討ちに会いに来たのだろうかと、アーサーはますます歩調を速めた。俺と本田の邪魔をする輩は理由がなんであろうと、殲滅。いつからかそんなポリシーがアーサーの中にはあった。二三発殴って前歯折ってやろう。そう考えながら、アーサーは愚かな邪魔者を見定めたが、どうやらアーサーの予想は外れていたようで、相手は数人どころかたった一人だった。自分を囲む生徒に迷惑そうにしている。アーサーは興を殺がれたような心持で、歩調を元に戻した。しかし、その囲まれた人物の顔がはっきりしてくるとともに、アーサーは息苦しさを覚えた。アーサーの目が幻覚でも見ていない限り、アーサーがこれから会おうとしていた本田その人だったからだ。アーサーが近づいてくるのに気付いた生徒たちはさっと顔を青くして、蜘蛛の子を散らしたように散り散りになった。本田は安堵の溜息をついて、やっとアーサーに気付いたようだった。しかしアーサーはもう何がなんだか分からない、かつてない前後不覚に襲われてその場で固まってしまっていた。本田はアーサーを不思議そうな目で見ながら、おずおずと近づいてきた。
「あの……」
「え、な、お、」
 何でお前がここに居るんだ。そうアーサーは聞きたかったのだが、からからに乾いた喉が絡まって、ろくに口をきけない。
「今朝、これを拾いまして」
 本田が差し出したのは、アーサーの生徒手帳だった。慌てて胸ポケットを触って確認すると、あるはずの手帳がない。恐らく、昨日のつかみ合いの拍子に落としてしまったのだ。
「わ、わざわざ届けてくれたのか?」
「ええ、丁度、大学も近かったので」
 温和な笑みで本田は答えた。本当は適当な生徒に渡しておこうと思ったのだが、校門で絡まれ、まともな話も出来なかったのだ。
「あ、ありがとう。……助かった」
「いいえ、お得意様ですから。これくらいは」
 それじゃあ、これで。本田はさっと踵を返した。さっきの倍、生徒の視線が集まっているのを感じた。同じようにこの場から早く立ち去りたい思いも倍だ。アーサーは顔を真っ赤にさせて、生徒手帳を握り締めた。感激で胸がいっぱいなアーサーは、本田が帰るのを引き止めたくて、とっさに声をかけた。
「あっ、お、おい、」
 本田は怪訝な顔でアーサーを振り向いた。何か言うことがあって引きとめたのではない。アーサーは狼狽しながら、口をもごもごさせた。本田は煩わしそうに眉を顰める。
「あ、あの、……また、行くから」
 アーサーはやっとの思いでそれを口に出した。本田は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐいつもの柔和な微笑を浮かべた。
「はい、お待ちしております」
 足早に去っていく本田の背中を見詰めながら、アーサーは熱に浮かされたように縺れた思考で、あの笑顔をどうやって写真に収めることができるか、そればかり考えていた。