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「……何で日誌なんて引き受けた」
菊は仁王立ちのバッシュを恐る恐る見上げて、彼の表情を確認した。そうせずとも、声色からバッシュが怒っているのは明白だった。怒鳴られることを予見しながら、しどろもどろに菊は答えた。 「あの、外せない用がある、と、必死になって頼まれてしまいまして、その、だから、」 「お前がいつもそんな態度だから……まぁ、いい」 怒声を何とか押し込めたバッシュが溜め息を吐いた。沸騰した苛立ちを、吐息から逃がしているように思えた。菊は申し訳なくなって、俯いた。 「すみません、先に帰っていただいて構いませんから」 「そのつもりならとっくに帰っている」 バッシュは菊の向かいの席に腰掛け、不機嫌そうに頬杖をついた。 「そ、そうですよね。すみません」 「謝るな。俺の意志だ」 菊は何も言えなくなってしまい、申し訳なさそうに俯き黙ってしまう。バッシュはそんな様子の菊に「悪いと思うなら、早く仕上げろ」と投げかける。菊は、はっとして、筆記の速度を上げた。バッシュはそんな菊を横目で見ながら、外に目をやった。部活に励む生徒にも、殆ど半袖は見掛けない。室内の二人も、シャツの上に上着を羽織っている。陽気は過ぎ、日はもう傾いた。空は薄い橙に、街にはほんのりと薄暗さが重なっている。教室はもっと薄暗い。射し込む夕日が教室を斜めに切り取り、二人の顔は薄いベールに隠されたようだった。近くで見る分には問題ないが、廊下から覗くようでは、表情は窺えないだろう。そう思いつつ、バッシュは菊を見た。 「……今日は、また一段と隈が濃いな」 菊は一瞬仰け反ったが、すぐに苦笑いで答えた。仰け反った菊の表情は強張り、引きつっていた。 「最近、夢見が悪くて」 誤魔化そうとする菊に、バッシュは顔をしかめ、高校生にあるまじき鋭い眼光で菊を睨んだ。 「だからまた徹夜か?」 菊は気まずそうに目を泳がせた。 夢が、怖い。いつか、菊がそう零したのをバッシュは覚えていた。もうずっと、眠るのが怖い。菊はそう言った。随分前のことだ。二人はまだ小学生で、仲が良いとも言えず、家が近いというだけの惰性の幼馴染みだった。バッシュは菊を疎ましく思っていたし、菊はバッシュを怖がっていた。そんな時、菊はぽつりと呟くように、震えた声でそう言った。バッシュはそれをよく覚えていた。 バッシュは鼻を鳴らす。 「書き終わったなら、さっさと行くぞ」 菊の手元を確認して、バッシュは席を立った。菊も慌てて帰り支度を調える。職員室に日誌を届けた後、もう暗くなり始めた光の中、二人は帰り道を急いだ。 「お前は、もう少し自己主張をしろ。人の言いなりになるな」 バッシュは溜め息とともに菊に投げかけた。菊は申し訳なさそうに俯いた。バッシュの小言は、耳に慣れ親しんでしまっている。それだけ、菊はバッシュに迷惑をかけている。(そう思っているのは菊だけだ)怒鳴られた方がまだましだ。と、菊はいつも肩身が狭い思いをする。 「……私、昔からこうなんです。バッシュさんと出会う前からずっと、」 消え入りそうな声で、菊は言い訳にもならない事を言った。バッシュは菊を一瞥しながら、「だろうな」と答えた。 バッシュと出会う前から、菊はバッシュを、バッシュの顔をした男を知っていた。いや、人間の形をしていただけだ。何千年もの時間を生きていたあの男を、人間とは呼べないだろう。そしてバッシュは、自分に『スイス』と呼ばれ、男に負けない、長い時を生きていた。 「バッシュさんは、覚えていないかもしれませんね……」 残念そうな、諦めたような、ため息にも似た呟きだった。菊にとって、バッシュが初めて会う夢の中の人物だった。二人がなかなか歩み寄れなかったのは、そのためでもあるだろうし、逆に今、こうして肩を並べているのはそのおかげでもあるのかもしれない。夢なのか、記憶なのか、曖昧なそれに触れる度、それと同じ様に自意識が曖昧になるような気がした。釣られそうになる。不愉快だと思った。 「寒い……」 「もう秋も終わりだからな」 菊が身震いする。吐息は白くなり始めて、空は随分黒くなっていた。剥き出しの首や手は、寒さに赤く染まっている。 菊は冬の方が好きだった。それはきっと、あの男にとっての辛い記憶が夏に多いからだと菊は踏んでいる。菊はバッシュが自分と同じだと期待していた。たった十にもならない子供には重すぎる記憶を、誰かと分かち合いたかった。そう、菊がバッシュと親しくなりたいと願ったのは、夢のことが原因だ。夢の中の自分だ。菊の話し方は、小さな頃から、男に釣られて始まったものだ。菊がこうしてバッシュの隣に並んだり、ふとした瞬間に憧憬やら慕情やらで胸がいっぱいになるのは、夢の男がスイスに焦がれていたからだ。と、それまで否定できる気はしなかった。例えば夢の中で日本と呼ばれていた男が、バッシュと同じ姿をした男以外に惹かれていたとしたら、胸裏に沁みる思いすら、それに導かれたのではないだろうかと菊は気が気でなかった。こうしてバッシュの隣に並ぶことすら、厚顔無恥な行いなのではないかと、誰とも知れぬ人に頭を垂れたくなる。誰よりも、バッシュに。常に及び腰で、他人の顔色を伺うような自分では、勇ましいバッシュは四六時中、腹の底に堪る鬱積に唸っているに違いない。 「本当、もう息も白い」 はからずも漏れてしまった嘆息を、菊は笑って誤魔化した。それに続けて、きんきんに冷えてしまっていた手を揉む。こんな風になんでもない自分を装うと、菊はいつも惨めな気持ちになる。自分は、いつまでもひとりぼっちなんだ。と、幼い頃から虚ろな思いをしていた。こんなふうに心に血が通わなければ、体もそのうち腐るだろう。菊にはそう思えて仕方がない。 「寒がりだな。まだ冬はこれからだぞ」 「これから、だからですよ。防寒もまだしっかりしてないのに、こんなに寒いんだから」 「炬燵は出すなよ。そのまま寝て風邪をひく上に引き篭るからな」 「もう出してます。バッシュさんも如何ですか?みかんもありますよ」 バッシュは顔を顰めた。炬燵の魅力は知っているが、否定した直後ではそのまま誘われるのも忍びない。菊はそれを見越してくすくす笑った。気恥ずかしさから、バッシュは菊を無視して足早に進む。菊はまだ頬を緩めながら、一層ゆっくりとした歩調でバッシュの後を追った。既見感を覚えるその光景を、菊を安心させる。夢と、バッシュとの思い出を含めてだ。あの男は、バッシュより背が高かった。もっと筋肉質で、もっと頑固で、口振も違った。夢の中でいつも菊を怒鳴りつけていた。隣に肩を並べるよりも、遠目に見詰めたり、一歩さがって、彼を肩越しに見ることが多かった。それでよかった。隣に並ぶことも望んでは居なかった。望むことすら、分不相応な、傲慢な思いだった。それが今、何の因果か。いとも簡単に菊はスイスの隣に並べる。菊は、菊であり菊でなかった。両親から貰った名前に、十七年間親しんだとしても、菊はそれを一瞬だって自分の名前だと思ったことはない。菊は夢の、いや、菊はそれが夢でないと気付いていた。あれは、実際に存在していた。覚えている。菊の存在は、自意識は、その存在とそれの記憶に蝕まれていた。 「――――」 菊は俯く。足元の革靴は、日本が履いていた物とよく似ていた。バッシュは、履き慣れたスニーカーでずんずん先を行く。呼びかけるのは諦めよう。呼びかけるにも、どっちの彼を呼び止めたいのか、菊には見当も付かない。 「(ほら、結局、私はいつまでも一人ぼっちだ)」 むしろ、そうでありたい。自分は誰なのだろう。哲学か、それともただの病的な妄想か。菊は彼が好きだった。スイスか、バッシュか。こんな恥さらしな思いをいつまでも抱き続けながら生きなければならないのだろうか。 「おい」 とぼとぼと歩く菊の手を、バッシュが握った。鮮烈な温度に菊は夢から覚めたような気分になった。 「いつまで待たせるつもりなのだ」 バッシュの体温が指先から伝わり、菊の手を温めていった。バッシュは指を絡め、ぐいと菊を引っ張る。されるがままに菊はバッシュの胸の中に収まった。ひく、菊の喉が動く。 |