理不尽な世界に生まれました。
 何しろ僕の人生というのはまず、親に捨てられる理不尽、それか何かしらの暴力で親を、家族を失うという不幸から始まるのです。僕は自分の名前を理解するよりも早く、人殺しを覚えました。一番古い記憶を掘り返すと、それすら、人殺しの記憶です。
 この世界で呼吸を始めたその瞬間から、僕は不幸でした。僕にとって、僕以外の人間とは、暗殺のターッゲットか、そして自分に命令を下す嚮団か。親も、家族も、友人も、何も持たない僕には他人の区別はそれ以外にありませんでした。
 人殺しを不幸と思ったことはありません。僕にとって人殺しは手段です。僕が嚮団で居場所を勝ち取るためには、この世界で生きてゆくためには必要な手段でした。役に立たないから。任務に失敗したから。嚮団に歯向かったから。そういう理由であっけなく死んでいく実験体を何人も見てきました。
 けれど、そうして捨てられてゆく実験体を見ても、特に何か感じることもなかった。中には、僕を兄と呼ぶ幼子もいました。でも、僕はむしろ、自分が生き残ったことに安堵する気持ちの方がよっぽど、大きかったのです。
 僕は人を殺すことになんの恐怖も感じません。息をするように嘘をつく人がいるように、僕は息をするように人を殺してきた。
 だから、あの人を見たとき、殺せると思いました。何のためらいも、躊躇も、感傷すらなく、引き金を引けると、その白く長い首をナイフで切り裂けると。今、すぐにでも。
 そうして握りしめたナイフをルルーシュはゆっくりと抜き取りました。こぼれるほどに濃厚な蜜みたいな、甘ったるい声で。
「そんな物騒なもの持ってちゃ駄目だろう?」
「で、でも、」
「大丈夫。もうゼロだって捕まったんだし、それにもし万が一のことがあったって、」
 瞬きが出来なかった。外の日差しが強すぎて、電気をつけていても部屋が陰って暗かった。
 暖かな空気が僕の体を裂きました。その時僕は、初めて、恐ろしいと思いました。何かを、この人の何かを。
「俺が守るよ。ロロ。お前だけは、絶対に」
 それは、息もできないくらいの。
「たった一人の弟だから」

 僕は生れた瞬間から、世界で一番不幸でした。誰よりも孤独でした。
 ルルーシュとの生活で僕は人殺しがひどく道徳に反し、普通なら一生関わることのない事象なのだと知りました。そう知りえただけ、自分が不幸なのだと知れただけで、成長なのかもしれません。
 偽りの記憶、環境、感情。そうした中で手に入れたものに、どれほどの価値があるのか、僕は知りません。もしかするとそんなものには、一片の価値や意味も無いのかもしれません。でも、だとすると僕の人生には一体、どれほどの価値や、どれほどの意味があったのでしょうか。
 僕が思い返せる記憶の中で、幸せな記憶といえば、正しい価値観といえばそうした偽りの中で得た、あの人のものしかないのです。あの人に与えられたものしかないのです。
 あの人こそ、ルルーシュこそ、僕の兄さんこそ、僕にとっては神様のような、いえ、神様そのものでした。
 ピンクの壁紙、可愛らしく繊細な家具と、小物と、甘い花の香り。枕に絡まる長いミルクティー色の髪。僕の部屋はそんなものであふれていました。僕はそれが嫌いだった。
 兄さんはいつも、むせ返るような甘い、蜜の匂いがしました。僕は、それに自分の体が浸っていることに、どんどんと足を取られ、沼地に沈むように、囚われていることにひどく恐怖していました。
 僕は、この世で唯一、恐ろしくてたまらないものがある。
 そういう感情に名前を持ったのも、兄さんと出会ってからでした。
 兄さんと出会うまでの僕は、人間らしい感情を持つことも許されませんでした。感情を持つことは、嚮団に反目することにつながります。嚮団が欲しかったのは、ギアスの研究対象と、その副産物である、ギアス能力者による兵士。感情を知らず、自分の意志を持たず、残酷な命令に従うことしか生き方を知らない僕らは、人間と呼ぶよりも機械のようで、兵士と呼ぶよりは、道具でした。
 でも、それが不幸だと気付いてしまえば最後、僕はきっと殺されていたのでしょう。今までの実験体がそうであったように。だから僕は耳を塞ぎ、目を瞑り、膝と胸をぴたりと付けて縮こまった。機械の体と機械の心で、ただじっと不幸と不遇を耐え忍んでいました。いえ、耐えているとすら気づきませんでした。僕にとってはそれが当たり前のことだったので。
 けれど、兄さんに微笑まれると、僕はいつも正気では居られなくなりました。甘ったるい声で、愛しげに、慈しむように、細められた紫色が揺れると僕は、もう、頭がおかしくなって、兄さんに夢中で、どうしようもなくなってしまう。
 機械である僕は、そんな感情を持ってしまうと、もう冷静では居られなかった。だから、僕は気付きました。
 ああ、僕は人間だったのかと。
 愛情は生きる糧です。人は愛なくして生きることなんてできない。一人で生きていたってそれは死んでいるのと変わりません。だから、だからこそ僕は、生まれたその瞬間からそれを奪われた僕は、生まれてすらいなかった。
 僕の血管に兄さんの愛が沁み渡ったころ、僕はやっと人間として生まれました。
 いわば、兄さんは僕の生みの親なのです。人間らしい僕の、生みの親でした。
 人間になったからといって、僕のすることは変わりません。僕はルルーシュの弟です。彼に愛されるために用意された偽物です。それでも僕は、気付いたのです。
 紛いものばかりの箱庭で、耳を塞ぎ、目を瞑り、膝と胸をぴたりと付けて縮こまった僕をむせ返るような甘い、甘い何かが浸している。世界の理不尽も、僕の不幸も、何もかも遮断する膜のなかで、兄さんの愛だけが、愛だけがそこに存在すると。
 それに気づいたときの僕の思いと言ったら!
 僕は兄さんに愛されました。一生分の愛を貰いました。兄さんの愛を授かるに、ふさわしい人間ではなかったのですが、兄さんから注がれた愛は、名前も記憶も、相手も、何もかもが間違いだったとしても、あの一年間の間だけでもそれは間違いなく、本物で。
 それはまるで、まるで母の胎内のようだと思いました。そう馬鹿げた妄想をしました。
 しかし、それほど僕にとってこの一年間の時間は、夢見心地な時だったのです。

 人は僕を愚か者と呼ぶかもしれません。それこそ、今までと変わらぬ、ただ命令を鵜呑みするだけの操り人形だと失笑する人だっているでしょう。
 そうですね、僕は騙されていました。僕はそれを知りながら、それを否定することで心を守っていたのです。騙されていると、どこかで自覚はありました。そうした予感はいつだって僕の影法師となって足元の影に潜んでいました。
 けれどそれ以上に、兄さんの愛が恋しかった。
 臍の緒から与えられる栄養を拒む胎児などいるでしょうか。それなくして、胎児は生きていけない。あのとき僕に迫られたのは、兄さんから与えられる嘘の愛情を嘘の世界を切り裂いて、兄さんの死とともに、人間としての僕も死にゆくか。たとえ偽りであったとしても、幸せな胎の中で、息もできないぐらいの愛情に溺死するか。
 僕は、気付いてしまいました。僕はこの世で一番幸福で、満たされていて、そしてその半面、だからこそ僕は世界で一番不幸で、孤独でした。飢えていました。乾いていました。
 人は、失ってから初めて、失ったものの重要さに気付くことが多いそうです。そう本に書いてあったんです。だけど僕ははじめから何も持っていなかったから、与えられたものが、いかに重要なものか貴重なものか、僕はよく分かっていました。
 だから僕は兄さんが怖かった。ルルーシュを失うことが怖かった。尊大な自尊心の前で、憎しみを刃に切り裂かれるのが怖かった。ルルーシュが僕を憎まぬはずがない。僕はどこかで確信していました。あれだけの愛を持つ男が、彼の本当の愛する妹の座に居座った僕を、糾弾せずにいるなんて、そんなの。
 与え続けられる愛に戸惑いながら、それでも、僕はそれを望まずには居られなかった。
 僕は、そう、誰でも良かったのです。誰でもいい、愛されたかった。人間らしく、愛されたかったのです。それが偶々あの人であっただけで、僕は。
 道具は、機械は、使い捨てだ。僕は、機械の癖に修理できない、壊れればその場で廃棄されてしまう出来損ないでした。今までの実験体がそうであったように。
 そんなものが愛されるはずがない。僕の変わりは、きっといくらでも居ました。僕は賢い子供です。理不尽な世界を押し付けられ、僕は賢く生きる以外に道がなかった。そういう現実だってちゃんと見えていた。だけど、けれど、僕は。
 僕は家族が欲しかった。無条件の愛を、無保証の愛を無邪気に、疑うことなく信じられるような、家族が欲しかった。人の体温を分け与えられた、薄暗闇で、無条件の安心を当然の権利として受けられるような。

 だから僕は、あの人に愛されるたびに、あの人を愛するたび、冷静ではいられなくなる。だって、あの人の愛にこの身が溺れているうちは、そのときだけは僕は人間でいられたから。
 愛するから、愛されるのでしょうか。愛されるから、愛するのでしょうか。
 他人が家族になるように、血の繋がりがなくとも絆は生まれるのでしょうか。
 卵が先か、鶏が先かなんて馬鹿みたい。答えなんてない。僕は知っています。そして分かっている。僕は答えに辿りつけない。
 けれど僕は愛されたい。兄さんに、ルルーシュに、あの人に愛されたい。
 僕はあの人の愛しか知らないのです。あの人に愛される以外に生きる方法を知らない。
 僕は守られていたのです。赤ん坊が母胎に守られ、羊膜に守られ、羊水に浸かりながら、それでも生まれようとするのは、きっと自分を愛する人を愛したいからだ。
 いずれ産んだことを呪われても、いずれ生まれたことを呪っても、きっと愛し愛されるために人は生まれてくるのだと。僕はそう信じます。
 そう信じたい。

 悪意が蔓延るこの世界に神様はいない。神様は人を愛さない。神様は人を救いません。
 だから、彼は神様なんかじゃなかった。彼は人間です。僕の唯一の家族で、愛する人。人を愛した僕は、機械ではありません。道具でもない。
 兄さんに愛された僕は、人間だから。それで十分だった。それで満たされたのです。
 僕は兄さんを愛している。それでいいのです。例えば捨てられ燃え尽き灰となろうとも、僕がそうすることで兄さんを救えるなら、構わないから。例え騙されていたとしても、騙され続けていたとしても、愚かであろうとも。
 僕は、兄さんを愛しているから。そう思いたいと、願えるから。
 ただ一つ見返りを求めるのなら、僕が死んだそのあとに、またあの胎に戻りたい。今度は生まれなくていい。そのままでいい。僕はもう一生分、兄さんを愛したから、永遠に生まれることなく愛されるまま望まれるままに生きたい。そして次に死ぬときは、僕という人間すら産まれぬまま、死体すらもこの人の中に遺したいのです。










胎内回帰願望