マサラでは雪が降ることはあっても、積もることは滅多にない。マサラはいつでも春めいた心地いい風が吹く町で、冬の訪れは遅く、春の訪れはどの町よりも早い。冬はほんの短い間だけ、それでも青く繁る木々が村を囲んで、寒さ以外に冬を実感することは少なかった。だから、二人が幼かった頃、五六歳の、こともなれば三四歳だったかもしれない。マサラに雪が積もった日のことを、グリーンはよく覚えていた。
 グリーンは膝丈にまで積もった雪の中から、二階の窓に張り付いているレッドを見上げた。グリーンは不満げに目を眇めた。その日のグリーンの記憶は事あるごとに思い出され、しかし、それはまるでグリーンの目をポラロイドカメラに見立てたかのようにくっきりと明瞭に、そして断片的に脳裏に映し出される。
 グリーンは昔からかなり横暴な性格をしていた。ガキ大将的な優しさを持ってはいたが、いかんせんそれが表に出る前に、グリーンは他の子供たちから距離を置かれることが多く、友達は少なかった。というよりも、一人しか居なかった。レッドだ。子供らしからぬ子供だったレッドは口数も少なく、表情も少なかった。感情表現に乏しく、同年の子供たちはレッドを遠巻きに扱った。レッドが普通の子供と違うのは、それを悔しく思うどころか、歯牙にもかけないところだった。レッドは自分の興味のあるもの以外にはとことん無反応を貫いた。家が隣近所だったこともあり、成り行きとして二人は一緒に行動し始めた。始めのうちはグリーンもかなりヤキモキした。しかし時が過ぎるに連れて、レッドはかなり単純で、そして好奇心の強い子供であると気付いた。レッドが興味を示すものは、ポケモンと草原の向こう。そしてレッドの琴線に触れるものだったが、これは未だにグリーンには解析不能である。降りしきる雪とマサラを白く染めた雪原は、レッドの琴線をひどく掻き鳴らすものだった。レッドは、関心のあるものに対しては盲目的な探究心を持っていた。探究心をもてあましたレッドは、前日の夜から降り始めた雪を、二階の窓から延々と眺めていたらしい。そして次の日見事に風邪をこじらせた。レッドは二回の自室の窓から、雪の中に佇むグリーンを見下ろしていた。熱で赤く上気した頬に、悔しそうに小さくはまれた唇。しかめっ面のレッドは今にも泣き出しそうだった。そしてグリーンの名前を呼んだ。一音一音、音を搾り出すレッドの唇が、コマ送りのように思い出された。
 しかし子供は純粋ゆえに薄情で短絡的だ。グリーンは珍しくレッド以外の遊び相手を見つけ、その子と村中の雪を踏み鳴らしまわったのだった。ざく、ざく、と踏むたびに雪は音を立てた。少女はその音を聞くたびにグリーンを振り返った。グリーンはどうやってその少女と出会ったのか覚えていない。グリーンの名前を呼んだレッドの視線を振り払ったのか、それともレッドが風邪に負けてベッドに戻ってしまったのか。グリーンは覚えていないが(恐らく後者はありえない)、ともかくその日のグリーンの記憶は、その少女と遊んだ記憶が大部分だった。詳細に明瞭に、グリーンの脳裏に焼き付けられたそれは、いわゆる初恋というものだったのだと、今なら分かる。少女は、寒さにも関わらず驚くほど薄着で、寒気にさらされた首元が気の毒な程青白く、見かねたグリーンは自分の巻いていたマフラーを少女に貸した。赤いマフラーだった。嬉しそうに細められた眼。興奮で引き上げられた口角。ざく、ざく、と音を立てる雪に大喜びの少女はグリーンの先を走っては、感激をグリーンに伝えようと振り返った。少女が走るたびに黒髪が短いながらも白いマサラを舞台に踊る。寒さに上気した頬が雪に溶けてしまいそうな白い肌を縁取っていた。黒と白、赤と白。そんなコントラストがグリーンの目を惹いた。眩しいぐらいに輝いたそれは、一面の銀世界よりも、グリーンの心に焼き付けられた。グリーンが見てきた景色の中、あれほど綺麗だと感じたことはない。それは、グリーンがジムリーダーになった今でも変わらない。少女が「グリーン」と名前を呼ぶと、それがまた世界で最も素敵な風景だった。一音一音紡がれた言葉は、鈴がなるように透き通ってグリーンの耳を擽った。鼓動が高鳴り、首の後ろからどっと熱が押し寄せる。押さえきれない感動がグリーンを突き動かし、少女の名前を叫んだ。
 遊び疲れると、今度は研究所の裏で休んだ。ひな壇から研究用に植えられた木の実のプランターを退かして、そこに二人して座り込んだ。少女は手袋をしておらず、白い吐息で真っ赤になった手を温めていた。グリーンは自分が嵌めていた手袋の片方を少女に渡した。そして裸になったグリーンの右手は手袋をしそこなった少女の左手を握って、グリーンの上着のポケットに突っ込んだ。少女は驚いて眼を丸くしたが、少し照れたようにはにかみ、お礼を言った。肩と肩がくっついて、頬までくっつきそうだった。寒くて堪らないはずなのに、グリーンは頭がくらくらして、何も考えられないほどの熱に浮かされていた。少女は額に汗の露を光らせながら、グリーンの肩に凭れ掛かった。眼を閉じ、眠っているようだった。起こそうとも考えたが、少女の寝顔があまりにも安らかだったので、起こすのも忍びない気がした。それ以上に、少女のコントラストがグリーンの目を惹き付け、縛り付けた。グリーンは少女に倣い、少女の負担にならないように彼女の体重を押し返し、眼をつぶった。
 次に眼を開けたとき、グリーンは自室のベッドで横になっていた。ナナミはかなり怒っていて、グリーンはひどい風邪をひいていた。少女はどうなったのだろうと熱に浮かされた頭で考えたが、ひりひりと痛む喉のせいで口に出せなかった。常は優しいナナミも怒ると怖くて、病人に対する気遣いと馬鹿な弟への憤りも兼ねて、看病は少し荒かった。グリーンはその日から一週間寝込んだ。ひどい熱を抱えながらも、グリーンの頭の中には彼女の微笑と、グリーンを呼ぶ声。写真のように浮かび上がる、白い肌を縁取る黒髪と赤い頬。一面の銀世界に彼女のが佇む姿だけが存在した。熱で沸騰しそうな頭はそれ以外のことを全てシャットアウトして、ベッドに沈むグリーンはただ彼女のことばかり考え、彼女の名前を呼んだ。
 熱が収まり、一週間ぶりに外出を許されたグリーンはその少女の姿をずっと探し回った。しかし全く姿が見えない。少女のことを誰かに話そうとは思わなかったが、マサラは小さな村だ。その村に誰にも知られずに生活している奴なんか居ない。夢か何か見たのだろうかと、グリーンは自分の正気を疑った。少女の片手に嵌めた手袋はいつの間にか自室に戻ってきていた。しかし少女に譲った赤いマフラーだけがいつまでも帰ってこなかった。レッドは相変わらず、何を考えているのか分からない無表情と無口で、遊んでいる間に一言、「また雪が降ればいい」と溢した。レッドは名前どおりの赤いマフラーを巻いて、手袋をしていなかった。





題:cherry