カントーをも制覇せしめたゴールドは、最近会う度にシロガネ山にいるとてつもなく強いトレーナーの話をする。シロガネ山の頂上、霰荒ぶ中半袖で仁王立ちをしているらしい。年も背も俺たちより高いけれど、それほど離れているわけでもないようだ。ゴールドは割と大柄なので、多分それなりに先輩だと思う。ゴールドはそのトレーナーに無言で勝負を挑まれ、そして相手のピカチュウに一撃を与えることも出来ず、手持ち六匹を立て続けに沈められた。ボッコボコにされた、と話すゴールドは、とても落ち込んでいるようには見えなかった。それどころか嬉しそうに興奮していて、俺はまたゴールドを馬鹿にしながら、底抜けに前向きなあいつを眩しく思った。
 初めにそのトレーナーの話を聞いてから随分経ったけれど、ゴールドは未だに奴に勝てないらしい。こいつにも勝てない奴がいるのかと、俺は少し驚いた。竜の穴で何度目かの敗北報告を聞くと、ゴールドは悔しいと嘯きながら、どこか嬉しそうにしていた。
「俺、あの人、きっとレッドだと思うんだ」
 ゴールドは確証のない予想を、まるで疑っていなかった。人間は成長するほどに野生から遠ざかり、まだ子供なゴールドは、人間よりもよっぽど野生で、野生ならではの研ぎ澄まされた第六感が人一倍強かった。そして俺は興奮し続けるゴールドをよそに、目の前がはちきれそうな感覚を耐えることに必死だった。
 その感覚に耐えて数日、居ても立ってもいられなくなった俺は、シロガネ山を登ることを決意した。一般人が立ち入れないシロガネ山は一見穏やかな緑地だが、それが如何に見かけ倒しか、怯える手持ちのポケモン達が教えてくれた。たまに飛び出す野生は恐ろしく強い。それも地上から離れるごとに強靭になっていった。寒さに強いニューラを連れ歩いても、怯えるばかりで、引き返そうと服の裾を引く。野生のポケモンに怯えているわけではなさそうだった。正体不明の、強大な何かにポケモン達は怯えているのだ。俺はそれが悔しくて、掴まれた裾を引ったくってずんずんとシロガネ山を登っていった。寒さは次第に増し、次第に息が白まり、手は悴んだ。まだ半分も登っていないのに、防寒せずにいるなど自殺行為だと悟った。もしかすると、半袖のレッドは既に人間ではないのかもしれない。ふと思い付いたそれを、俺は鼻で笑った。
 会ったとして、どうすることも出来ないだろう。ゴールドですら完敗する相手に、俺では歯の一つですら立てられる気はしない。しかし、会わずにはいられないい。全てはレッドが、始まりだ。全ては。きっと俺の復讐は、レッドに勝ってこそ、やっと達成されるのだ。俺を支える世界の柱を、全て叩き折っていったあの男を倒してこそ、俺の強さは証明されるのだ。脅迫概念に近いそれを飲み込んで、俺はまた一歩足を進める。
 頂上に近づく度、四方八方から何かの視線がのし掛かる。極寒に近いのに、額には脂汗が浮かんだ。一瞬でも気を抜くと体をバラバラに引き裂かれてしまう。そんな気がした。重くのし掛かる空気が、体の感覚を鈍らせた。ニューラは寒さに強いが、相変わらず引け腰で服の裾を引っ張った。疲労や緊張で、俺は大分参っていた。思うように進まない足も怯えるニューラも、俺の不満と憤りだけを募らせる。
 レッド。親父を、サカキを退け、たった一人でロケット団を壊滅させた少年。伝説のトレーナー、マサラタウンのレッド。その時、僅か11歳。
「………っくそ!」
 旅をすると、嫌でも名前を聞いた。どれもが都合のいい英雄伝に聞こえた。俺はその度に焦りが増して、ゴールドに会う度、劣等感が増した。俺はもっと、もっと、誰よりも強くならなければいけないのに。ぎり、奥歯を噛み締める。砂の味がした。苛立ちはピークに達する。ニューラがまた裾を引っ張った。
「いい加減にしろ!!」
 ニューラの尖った鉤爪を払いのける。
 ポケモン達に手を上げるのは久しぶりだった。もしかすると初めてかもしれない。今まで冷たく接したことや、蔑ろにすることは多くあったが、鋭い牙や堅い爪を持つポケモン達に手を上げるなど愚の骨頂。事実力いっぱい払いのけただけで、俺の手はひりひり痛んだ。ゴールドを突き飛ばしたり蹴り飛ばしたりしても、痛みを感じたことなんてなかったのに。
 ニューラは手を払いのけられたことがショックなのか、目を白黒させて固まっている。俺は冷水浴びたような、胸からじわりと冷たさが広がっていった。心臓を満たす冷水は血管を通り広がって、指先まで行き着く。俺の指は死んでしまったかのように動かなくなった。体を満たした冷水は、やがて脳味噌までせり上がった。その間も、手はひりひりと痛む。痛い。痛かった。痛すぎる。冷水は俺の許容する量を超えて、やがて目から溢れ出した。
 実に怯えているのは、間違いなく俺なのだ。見えもしない脅威に怯え、疲労を背負って、足を引きずり、今すぐにでも引き返したいと思うのは俺だった。現実を突きつけられるのが怖い。自分は最強になれない、いつまでも弱い子供のままなのだと、親父を打ち負かした張本人に、尚も示知らされるのが怖い。それでも滑稽なプライドが逃亡を許さない。それすら弱さなのだと思い知らされるようだった。
 俺は思わず尻餅を突き、膝を抱え込んでうなだれた。ごつごつした岩肌は、氷のように冷たく、俺の体温を奪っていった。疲労も緊張もピークに達していた。もうこの場氷像にでもなってやろうか。なんてことも考えた。ニューラは恐ろしい程鋭い鉤爪で、恐る恐る俺の頭を撫でた。俺は少し泣いた。ニューラはその間ずっと俺の頭を撫でていた。





『神様に教えてほしい10のこと』