一つ前のチャンピオンは早かった。二つ前のチャンピオンはもっと早かった。
 二つ前のチャンピオンは落ち着きのない子供だったけれど、ある人物が来るのをひたすら待っていた。多分世界で一番強くあることよりも、きっとその人に自分を認めさせたいの一心だったのだろう。一つ前のチャンピオンは本当に、とても強かった。だけどそれと同じぐらいワガママだった。ポケモンをとても愛していたけど、興味のないものは一瞬だって覚えていられなかった。朝に挨拶をして、夜にまた「はじめまして」と挨拶するような人だった。二人はとても良いライバルで、そんな二人に俺は少し憧れた。自分にはそういう相手は居なかったし、最強の名前を取り合うというよりも、ただ、自分を相手に認めさせようとぶつかり合う二人が、とても眩しく思えたのだ。
 一つ前のチャンピオンはひどいワガママで、チャンピオンに早くも飽きてしまい、簡単な置き手紙を一枚残してチャンピオンを辞めていった。一つ前のチャンピオンがいなくなって、真っ先に連絡がいったのは二つ前のチャンピオンだった。さして驚いた様子もなく、しかし、チャンピオンとして復帰して欲しいと請うリーグ本部に、烈火の如く怒り狂って、結局彼はジムリーダーとなった。次に目を付けられたのは、俺だった。チャンピオンは退屈だ。興奮と感動とは程遠い、忍耐力がいる場所だった。二つ前のチャンピオンのように、張り合う相手が居たならば、それもまた違っただろうが、退屈に苛立ち、劣等感に粟立った。
「自分があいつに劣っていると知りながら、あいつの後がまにつけっていうのか!?」
 そう怒ったのは二つ前のチャンピオンだったけれど、チャンピオンには彼の気持ちが分からなくもなかった。あのたったひとりの、ワガママな聞き分けのない子供のために最強の称号は全くの張りぼてになってしまったのだ。チャンピオンは全てのトレーナーの憧れだ。チャンピオンも全力を持ってそれに応えなければならない。全てのトレーナーを欺いているという背徳感に加え、喉が灼けるような劣等感。チャンピオンはあの子供がいる限り永遠に次席、現チャンピオンに至っては、三番手だ。俺を、一番苛立たせるのは、紛れもない自分自身だった。



「彼が帰ってくるまで、誰にも負けないで居るつもりだったんだ。それが俺の義務だと思った。」
 チャンピオンは退屈だったけれど、ワタルは自分がそこに留まる意味を見出していた。負けるべきではないと思っていた。彼のため、そして自分のために。
「三番手にだってそれなりのプライドがある。三年前から俺だって強くなった。グリーンにだって負けないつもりさ」
ちり、とワタルの瞳に炎が灯る。しかしワタルは目を伏せ、ヒビキを振り返って、力なく微笑んだ。
「……だけど君に負けた。おめでとう。ヒビキ君」
 ヒビキはなんと答えていいのか分からず、機械にはめ込まれているモンスターボールばかり眺めていた。チャンピオンに勝てたのは、率直に嬉しかったが、ワタルの話を聞いた後ではとんだぬか喜びだ。淡い喜びと、釦を掛け違えたような違和感に感情が宙ぶらりんになる。ワタルはそんなヒビキを横目で伺いながら、レッドのことを思い出した。彼はチャンピオンになろうとも、眉の一つも動かさなかった。そうヒビキは、ちょうど彼と同じ年頃だった。
「……レッドさんに会いに行かないんですか」
「レッドは行方不明でね、どこに居る分からないんだ。いろんな人が彼に会いたがっている。ジムリーダー、四天王、一般トレーナーに、ロケット団の残党。死んだっていう人もいるし、外国へ行ったとか、元々幽霊で、チャンピオンになる夢を叶えたから、安らかに成仏したんだとか、適当なことを大真面目にいう人もいる。皆が皆好き勝手に言い放題だよ」
 不服そうなヒビキに、ワタルは笑った。不服ながらも、わくわくと煌めく少年の瞳が、あの二人を見たように、とてもまぶしく光っていたのだ。大人びた子供だと思っていたけれど、やはりまだ彼は子供なのだ。ワタルはレッドが居なくなっても、探しに行こうなんて思いもしなかった。
「ヒビキ君。カントーのジムに挑戦する気はないかい?」
「カントーですか?」
「ああ、カントーにはグリーンもいるし、レッドのことも知ってる人も多いだろう」
 ヒビキは一瞬目を見開く。間をおいた後、「はい」と短く、しっかりとした返事が返ってきた。ワタルは思わず目を細める。
「今日はもう遅いから、泊まっていくといい。君のために、部屋を用意するよ」
 その日ワタルは少し荒れて、泣いた。「だから子供は嫌いなんだ」何が『だから』なのか。その言葉の前に繋がる事柄が見つからなくて途方に暮れた。ただチャンピオンはまだ変わらない。酒も煽った。次の日ワタルはヒビキを見送ろうと、エントランスで待っていた。泣き腫らした痕もなかったし、二日酔いもしなかった。ただどうしても頭がぼぅ、として、少年の新たな旅立ちを祝ってやろうとは思えなかった。一応部屋までは迎えに行ったが、ヒビキは既に居なかった。こんなに早く起きれるとも、早く出発したとも思えないので、大方広いリーグのどこかで迷っているのだろう。
「ワタルさんっ」
しばらくヒビキを待っていると、顔を輝かせて、ヒビキがワタルに駆け寄って来た。後ろで受付嬢が苦笑いしていた。どうやら本当に迷っていたらしい。
「部屋もリーグも広くて、迷っちゃったんです」
ワタルは苦笑した。
「初めは皆そうだよ」
 ワタルの言葉にヒビキは安心したようにはにかむ。ヒビキは気恥ずかしそうに受付嬢にお礼とさよなら言った。
「リーグが広いのは外から分かっていたんですけど、部屋も一つ一つあんなに広いんですね」
「君の泊まった部屋は特別広いんだ。チャンピオンのための部屋だからね」
 ヒビキは少し面食らった。その顔を見ていると、ワタルはレッドが旅立った日を思い出した。
「……レッドも迷ったんだよ。誰にも会わないように夜に部屋を抜け出して、結局出発できたのは朝だった」
 そして彼を見つけたのもワタルだった。無表情の割りに、バツの悪そうな顔をしていた。
「さぁ、世間話もこれぐらいにしょうか。カントーに行く前に、一度くらい家に帰るといいよ。お母さんも心配しているだろう」
 セキエイリーグは朝日に照らされて、きらきらと光っていた。風は少し寒いぐらいで、呆けた頭には丁度いい。ヒビキはボールからドンカラスを取り出していた。レッドはリザードンだった。レッドが旅立った日はもう少し暖かかったように思う。ヒビキは羽を撫でながら、ドンカラスの首にしがみついた。戦っている最中にも思ったが、ヒビキのドンカラスはよく育てられている。つややかな羽毛がそれを物語っていた。レッドのリザードンも、逞しい体をしていた。大きな羽を広げ、レッドはあっという間に見えなくなってしまった。ワタルは目を閉じた。
「ワタルさん、」
 ヒビキの不安げな声にワタルは目を開ける。声色通りにヒビキは不安げに眉を下げていた。
「あの、泣かないで下さい」
 ワタルはぎょっとしてヒビキを見返した。なんと言ったらいいか分からず、ただ彼を見返すしか出来なかった。ヒビキは不安げな表情のまま笑う。
「じゃあ、行ってきます」
 戻ってくる気もないくせに。ドンカラスで飛び立つヒビキがレッドに重なって見えた。二人とも後ろを振り向きやしない。目の前しか見えていないのだ。
「だから子供は嫌いなんだ」





『神様に教えてほしい10のこと』