息をしても、自分の吐いた白い霧の行く先が分からないというのは、レッドにはどうにも、居心地が悪く思えた。シロガネヤマ麓のポケモンセンターまで駆け込んで、数ヶ月ぶりかのジョーイさんとの再会を果たした。レッドの自慢の相棒達は、ボールの中で息も絶え絶えになっている。ジョーイさんは微笑む。
「あなたのポケモンは、私が責任を持ってお預かりします」
「…………」
 お願いします、とレッドはジョーイさんを恐る恐る見上げた。全国どこでも変わらない彼女、彼女達の微笑みはどこか恐ろし気でもあるが、彼女の微笑みは今のレッドに胸を撫で下ろさせるものだった。ボールを抱えた彼女がセンターの奥に消えると、レッドはたまらず、ソファに腰掛け深い溜め息を吐いた。
 負けた。三年間、レッドがマサラを旅立つ日のグリーンに以来、初めての敗北だ。それは玉座から引きずり落とされたような屈辱感を湛え、レッドの前に立ちふさがった。ひどい脱力感がレッドを襲い、活力を根こそぎ奪って行く。敗北。その二文字がレッドの思考を支配していた。そして挑戦者の顔が浮かぶ。何度負けても挫けなかった、負ける度に強くなっていったあの挑戦者。
「(……違う、あの子が新しいチャンピオンだ。僕は、もう)」
 レッドは目の前が真っ暗になった。




「(……あったかい……)」
 レッドはその温かいものに体をさらに密着させた。シロガネヤマで、レッドは常にそうして、何かに寄り添って眠っていた。そうでもしないと凍え死んでしまう。体温と体温で温め合い、やっと安心して眠ることが出来る。たがそうする必要はもう無いのだ。レッドは負けた。
「(…………)」
 ふと、眠りから覚めたレッドが、この温め合う相手を疑問に思った。相棒達は全てジョーイさんに預けてしまった。しかもどうやら、レッドが胸に埋まっている相手は服を着ているようだ。まさかジョーイさんではあるまい。
「…………………」
「言っておくけどな、お前がしがみついて離れなかったんだからな。お前にそんな顔される筋合いないぞ」
 グリーンの背中を掴んでいた手を話し、レッドは辺りを見回す。ポケモンセンターのベッドだ。
「俺が受付から運んでやったんだからな。負けたんだろ。大人しく下山しろよ。ジョウトのチャンピオンが、めでたくカントーのチャンピオンにもなったわけだ」
「……………」
「しっかし、まさかお前に勝つまでとはなぁ。お前の悪運も尽きたもんだ。とりあえず、マサラに帰るぞ。おばさんも心配してる」
「………」
「先に行っておくとか、後から行くとかは無しだぜ。放っておいたら、いつまで経っても帰って来ないだろお前」
相変わらず畳み掛けるように喋る男だ。うんざりとグリーンを見上げると、グリーンはレッドの額を弾いた。
「お前が喋らないからその分俺が喋るんだろうが」
 おかげでグリーンはレッドに対して人の倍喋るし、レッドはグリーンといると無口を通り越して言葉を知らない。それで良くやっていけるなと二人を知らないものは疑問のようだが、気づけばそれが二人の常識だった。
「大体お前は今まで自由過ぎたんだよ。チャンピオンは蹴るし、その後直ぐに失踪するし、やっと見つけたと思ったらシロガネヤマの頂上で吹雪と霰の中半袖で仁王立ちで、挙げ句の果てに負けるまで下りないって、仙人にでもなるつもりなのかと思ったぜ。爺ちゃんはゲラゲラ笑ってたけどよ、マサラに帰る度におばさんに『レッドは元気かしら?グリーン君、知らない?』なんてめちゃめちゃ心配そうな顔で聞かれる俺の身にもなってみろよ。レッドは今人間を止めそうになっていますなんて言えないだろ。悪いことしてるみたいで俺まで疎遠になっちまっただろうが。」
 少々喧しいが、レッドにとってはグリーンといるのが一番気楽だ。
「俺が持って来てやったマフラーも手袋も上着も、全部ポケモンにやっちまいやがって、ポケモンだってそりゃ寒いだろうがな、お前の十倍は寒さに強いぞ。俺が着て行ったジャケットはどうしたんだよ。あれ高かったんだぜ」
「燃えた」
「羽毛百パーセントだからな。せめとカメックスに着せろよこの野郎。なんでよりによってリザードンなんだ。あのジャケットのために俺の財布と何匹のポッポが丸裸になったと思ってやがる」
 しかしグリーンはいつまで同じ布団に入っているつもりなのか。くどくどがみがみ、ベラベラペラペラ、うるさい奴だ。レッドは両手で耳を塞いで、グリーンに背中を向けてしまった。グリーンの声は更に喧しくなる。元気な奴だ。大体、レッドが家に帰るかどうかなんて、レッドの自由だ。確かに三年も帰ってないのは母に悪いとも思ったが、こんな風に、目標も生き甲斐もなくブラブラ生きている息子の姿など、見たくもないだろう。レッドだって見せたくもない。目標も生き甲斐も、早く叶えすぎた。
 マサラタウンを旅立ったあの日。レッドはきっとあの挑戦者のような目をしていただろう。希望と情熱を燃えたぎらせて、日々を全力疾走するように、阻むものを蹴散らし、飛び越えて進んで来たに違いない。しかしある日突然ぱったりと先がなくなってしまった。シロガネヤマの頂上、絶壁のあの場に立った時、レッドは自覚した。自分が最強だということ、それから、自分はもうマサラを旅立った時の、あの眩い光に飛び込むような高揚感を味わうことはないだろうと言うこと。次からあの場所に立つのは、レッドではなく新しいチャンピオンだ。あの子も絶望するのだろうか。レッドのように、瞳の輝きも失せ、誰も来ないあの場所で、死んだように生きるのだろうか。
「おい、こら。こっち向けって。……ったく、負けたからって、何時までもいじけてんじゃねえよ。ちょっとはワタルを見習えよ。あいつなんか負けてから逆に生き生きしだしたぜ。良いだろ、シロガネヤマのてっぺんで何時までも廃人してるよりは、チャンピオン奪回でも目指せよ。新しい目標が出来て良かっただろ」
 ワタル、レッドは記憶を掘り返した。あぁ、そうだ、レッドがチャンピオンになったとき、最後の四天王としてレッドの前に立ちふさがった男だ。そうだ、確かにあの時も、ワタルは負けたことが嬉しそうだった。何故笑っていたのだろう。悔しくなかったのだろうか。
 あの目は、そうだ。あの子と同じ目をしていた。何度負けても挫けず、手酷く負けるたびに強くなって立ち上がってきたあの子と同じ目だ。
 ……そうだ、まだ。まだ終われない。まだ終わりじゃない。先がある。先があったんだ。そしてあの新しいチャンピオンが誕生したように、これからもレッドの前には先が出来る。
 手足の先が痺れ、血潮が巻き上がった。目の前には、マサラを旅立った時の、あの眩い光に飛び込むような高揚感。
 レッドはグリーンに向かい合った。グリーンは少々たじろいだが、何も言わずレッドの言葉を待った。
「ありがとう、グリーン」
 レッドは目が覚めたような気がした。もう何年も味わうことがなかった、情熱と呼べる感情。
「……い、言うのが遅えよ、ばっばか、この……」
 グリーンは平静を保とうとしたが、口篭って上手くいかない。レッドにはその様子がおかしく思えた。くすくす笑うと、今度はグリーンが拗ねてレッドに背を向けた。レッドはその背中をぽんぽん叩く。
「一眠りして、ポケモンが帰ってきたら、バトルをしよう」
「はぁ、そんなの、今さらだろ」
「何か始めるときは、グリーンと争わないと上手く行かないんだよ」
「……ったく、しょうがねぇえな、ポケモン馬鹿が」
溜息をついて、グリーンは苛々した口調で言ったが、レッドにはそれがただの照れ隠しだと直に分かった。