自意識を持ち始めた頃から母親はいなくて、僕は父の背中ばかりを見て育った。父は仕事ばかりに夢中で、僕に関心を示さなかった。広い屋敷にはメイドや使用人がいっぱいいて、埃の一つだって落ちていたことはなかったし、食事に難儀したこともなかった。一流のシェフが作る料理はきっと、どの家で食べるよりも美味しいものだったろう。家も部屋もベッドだって、どの子供より広かっただろう。けれど、どの家の子供より幸せかと考えると、それは違うと僕は首を振る。母親がいない理由を聞くことすら叶わない、こんな父親にはなるまい。僕はそう考えながら父の背中を睨み上げていた。小さな僕にとって父親とは憎しみの対象だった。
 そんな意識を持っていたからか、僕にとって実家はあまり憩いの場とはいえない空間だった。息が詰まりそうな思いの中で、ほぅ、と息を付く場所など無かった。証拠に、僕は恐ろしく寝付きの悪い子供だった。布団に入って、一時間二時間は当たり前、常に寝不足気味で、目つきが悪かった。
 ミクリとはそんな頃に出会ったせいか、「丸くなった」と最近よく言われる。しかし、僕自身には何の変化もない。変わってゆくのは周りの環境だ。僕は本質的には何も変わっていない。
 チャンピオンに成長し、大人になった僕は家を出た。小さな家、小さな部屋、大人一人しか寝ることが出来ないベッド。料理は自分で作った。レシピ通りに作って、レシピ通りの味しかしなくとも、達成感は料理の味を何倍にもした。寝付きも驚くほど良くなった。人の目がない、そもそも睨み上げる背中がない生活で、息の詰まるような心持ちはみるみる解けていった。そう思ったのは一瞬で、料理もその内飽きてしまった。寝付きの悪さもぶり返した。時だけが流れて、体だけ大きくなって、力だけが強くなっていく。出来ることは増えていくはずなのに何も選べないまま、虚無感だけが積み重ねられていく。孤独だった。世界から自分だけが遠ざけられているような疎外感。そんなことを考えた瞬間、僕は心臓を一突きされたような錯覚を覚えた。僕には何もない。自分で生み出す力もなく、人に頼れるほどの度胸もなかった。優れた容姿も能力も、うず高い虚栄心を塗り固めるばかりで、僕は拒否反応を起こすように、他人との一線を張り詰めた。
 家を引き払うことも考えた。リーグ本部で寝泊まりしても良かったけれど、チャンピオンの座はあまりに退屈すぎて、ホウエンを放浪することが多くなった。洞窟に籠もることも多くなった。家にはもう何ヶ月も帰っておらず、何ヶ月ぶりの家の床を白い埃が覆っていた。
「うわぁ」
 僕の心の悲鳴と同じ言葉が、僕の斜め後から聞こえた。
「思ったよりヒドい」
 高いはず少年の声が、呆れや非難で音階を下げていた。僕は苦笑いするしかなかった。
「これは食事よりも掃除が先ですね」
「覚悟してたよ」




「台所に蜘蛛の巣が張ってある家なんて、初めて見ました」
 憮然とした表情で少年はスプーンでカレーを掬う。僕はまた苦笑いした。
「大分長いこと留守にしていたからね」
「料理を作るために来たのに、掃除で一日が終わっちゃいましたよ」
「でもそのおかげで見違えたよ。この家を買ったときより綺麗だ。カレーも凄く美味しいし」
 磨き上げられた鉱石のようにステンレスがキラリと光る。床を真っ白に覆っていた埃は一つも落ちていない。部屋の隅にはバケツと雑巾、箒が立て掛けられていた。今の僕には、それらが魔法の杖のように見える。ルビー君は魔法使いだ。部屋をぐるりと見回して、僕は笑った。子供のような例えだ。ルビー君はスプーンを空にすると、コップに入った水を飲み干した。
「ダイゴさんは、生活力が無さ過ぎます」
 じっとりとした視線でルビー君が僕を睨む。大人びた表情ばかりの彼にしては、子供らしい顔をしていた。僕は空になった彼のコップに新しい水を注いだ。ベッドサイドに放りっぱなしだった水差しが、思わぬところで役目を果たす。
「ホテル住まいに、毎日外食なんて、体に悪いですよ。特に外食は健康に気を使った作り方をしてませんから」
「男鰥だと、どうしてもね」
 紅く反射する彼の瞳は、曖昧に揺れる。
「……誰か、そういう人を作ったらどうです?」
 不機嫌そうな声がまたコップ一杯の水を空にする。まだ幼い彼には、このカレーは辛すぎるのだろう。無理に僕に合わせることなかったのに。心の中で考えて、彼なりの優しさにむず痒さを覚える。
「ダイゴさんなら選り取り見取りなんでしょう?」
「ははは、そうでもないよ」
「そうですか」
 まるで信じていないようだ。ルビー君ははぐらかしてばかりの僕に見切りをつけて、辛すぎるカレーを片付けるのに本腰を入れ始めた。水差しの水はもう彼のコップを満たすほどもない。僕はそれを半分ぐらいの暈に減っていた僕のコップに継ぎ足し、彼のと入れ替えた。ルビー君はそれを見ながら、少しぶっきらぼうに「どうも」と答えた。頬が少し赤くなっていた。きっと辛さに耐えていることを見透かされ、恥ずかしがっているのだろう。
「(あぁ、)」
この世の幸せは、この小さな家の小さなテーブルに凝縮されている。僕にはそう思えて仕方なかった。ニヤつく頬を必死に押さえつけ、僕は込み上げるむず痒さを享受する。





『神様に教えてほしい10のこと』