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ふと、息をついた瞬間に、綻んだ表情が可愛らしいなと思った。
会話の最中、食事中に水を飲んだ時、呼吸を一瞬止めた後、ふとこぼれる緊張の綻びのような顔が、なんとなく可愛いと思った。花畑だと、埋もれてしまうような他愛のない、些細なことだ。敷き詰められたコンクリートの上に咲いた、雑草の蕾のようなものだ。特にどうと思うこともない。ただそれを、一瞬のそれを見た瞬間、シャボン玉が弾けた。衝撃でいえばその程度。音もなく、小波もない。しかしその表情がどうしても印象的で、同じように一瞬自分の呼吸が止まったのをよく覚えている。次の瞬間、新しい小波に攫われて、その感情を理解するほどもなく、掻き消された。その瞬間だけがいつになく気になって、しかしその後のまた、うれしいことや面倒なことに紛れて、またそのふとした瞬間に愛らしいなと、あぜ道の雑草が芽ぐむ。 彼が浮かべる満面の笑みよりも、そうした控えめな素の彼の方が、彼らしいと思った。 「あぁ、美味しかった。さすが、フランスさんです」 グラスに注がれた水を飲み干して、日本は腹を擦りながら深く息を吸った。小さなダイニングテーブルの向い、フランスは目を細めながら笑う。へらり、だらしない笑みだ。気の抜け切った自分の表情にフランスは可笑しくなった。 「日本にそう言ってもらえると嬉しいねぇ」 「私に料理を作ってくださるのなら、何度だって言わせていただきますよ」 日本も負けじと、ふふふ、笑いをこぼした。日本は下戸だ。少し大胆なのは、一杯だけ飲んだワインのせいだろう。しかし自意識を失うこともない。口調は丁寧なままで、どんな時でも張り巡らされる彼の緊張の糸は、いまだにピンと張りつめて周りの雰囲気を察知している。ワインはその糸の緊張をほんの少し緩めただけだ。 「今日はもう、遅いし、泊ってけば?」 テーブルに体を乗り出して、肘をついて顎を支える。顔が近付くと、日本の真っ暗な瞳がよく見えた。底のない穴はどこまでも深く、飲み込まれそうな気がする。 「そうすれば、また朝食で美味しいって言ってもらえるし」 にこ、と微笑みかけると、日本はすこし眉を下げた。 「すみません。今日はもう帰らないと。飛行機も取ってありますし」 「あー、そっちは今忙しいんだっけ?」 「ええ、慌ただしくて、落ち着きませんね」 「そら大変だ」 「私も残念です」 乗り出していた体を、今度は椅子の背に預けた。日本の瞳は遠ざかり、糸の振動を察知した日本は、申し訳なさそうに笑う。 「何時の飛行機?」 ほんの少し残っていたワインを飲み干す。日本は足元のカバンから飛行機のチケットを取り出した。 「うわ、この時間じゃ、もう出ないと危ないよ」 チケットを手に取り、時間を確認すると、時計の針は驚くほどに印刷文字に近かった。スケジュール管理が正確な日本にしては珍しい。体をそのままに、目線だけ日本によこす。日本は穏やかに目を伏せ、食後のひと時を椅子に預けていた。 「……名残惜しいと、なかなか言えだせないものですね」 日本はひとり言のように呟いてから、何事もないように立ち上がり。足元のカバンを拾う。 「食い逃げみたいですが、そろそろ失礼しますね」 「あ、送ろうか?」 「いえ、お気遣いなく、大丈夫ですよ。勝手は分かります」 ガタガタと騒がしく椅子ががなり立てる。思わず舌打ちしたくなるのを寸前で思いとどめた。立ち上がった日本にチケットを渡し、玄関まで送る。 「もし日本に来ることがあれば、ぜひお立ち寄りください。腕を振るわせていただきます」 「本当?そりゃ楽しみだ」 日本は薄手のコートに腕を通して、小さく会釈した。春はもう鼻と鼻がくっつくぐらいに近く、羊毛のセーターでは体が火照るほどだ。夜の薄暗さに冷やされた空気は、熱くなった頬にちょうどいいくらいの温度だった。日本もほんのりと色づいた頬のまま、お辞儀をして踵を返した。少し足早なその足取りに一抹の寂しさを覚えた。ギリギリの時間まで共に家で過ごすよりも、ゆっくりとした歩調で一緒に歩きたかった。日本が二つ先の角を曲がった。残念がる胸中で、二人が膨らみ始めた蕾を眺めながら歩くのを想像した。うん、こちらの方が素敵だ。 冬の残渣が吹き込んで、フランシスは玄関を閉めた。食卓の、二人分の流し台に置いて、無言のまま洗い物を始めた。洗い物の量に、図らずにため息が漏れる。無理に食事誘ったのはフランスだった。日本は恐らく、時間に余裕を持って席を予約していたのだろう。あれもこれもと、思い出すと後悔は止まることを知らない。やめだやめ、と洗い物を放り出して、フランシスは新しいワインとグラスを手に取る。日本が美味しいと笑ったボトルの残りには手をつけられなかった。リビングのソファに体を委ね、味わう気など毛頭もなくただ浴びるように手の中のそれをのどに流し続けた。一時間ほど経っただろうか、どうしても酔えない。体はアルコールに震えるが、どうしても意識だけは糸を張り付けたままだった。 「最悪……」 不調だった。風邪をひいたかもしれない。最悪に不調だ。クッションに顔をめり込ませる。精一杯大きなため息を出すと、口に触れている部分の生地が少しばかり湿る。ぶぶぶ、ジーンズの後ろポケットに入れられた携帯が震えた。気だるさを全開に携帯をつかむ。相手も確認せず画面を開く。メールだ。 『無事間に合いました。もう春ですね。道端の花も蕾が膨らんでいました。きっと素敵な花が咲くのでしょうね。次はぜひ、フランスさんにパリを案内して欲しいです』 シャボン玉が弾けた。 |