ホウエンの空は高く、ひたすらに広い空には陽光を遮るものがない。カンカン照りの日差しがアスファルトを焼いて、焼けたアスファルトの匂いが微かにする。ふと風が吹くと、汗ばんだ肌がすっと冷えて気持ちがよかった。風が潮の匂いを運ぶ。耳をすませると潮騒が聞こえてきた。
ミナモのデパートでセールがあるのだとハルカが嬉しそうに話した。話の流れで一緒に行くことになったのだけど、買い物になると女の人は豹変する。ハルカも例外ではなかったらしく、案の定先にダウンした僕は、デパートを脱出し、近くにあったベンチで休むことにした。ベンチには丁度いい木陰が差していて、空調よりも心地良い風が吹く。僕よりも多くベンチを占領する大きな袋には、今日の戦利品がごろごろ入っている。早目に整理して、預けられるものはさっさとパソコンに預けてしまおう。いったんミシロに戻ってもいいし、このまま、また旅に出てもいい。目をつむると一層波の音がよく聞こえる。旅を始めたころは意識もしなかったが、ホウエンは海に囲まれているから、耳を澄ませば波の音がそこかしこで聞こえる。僕はこの音が好きだ。安心して、眠ってしまいたくなる。 うつらうつらと、僕が船をこぎ始めてから少しすると、ポケナビにハルカの着信が入った。 『ユウキ君?今どこ?』 デパートの方をみると、入口あたりで大量の荷物を抱えたハルカがきょろきょろと辺りを見回している。 「こっち、こっちだよ。ハルカの左側」 腕を大きく振ると、ハルカもそれに気づいたらしく、荷物を重そうに抱えて歩いてくる。 「ごめんね、お待たせ」 自分の荷物を端に寄せて、ハルカの座るスペースを空ける。ハルカはそこに傾れ込むと、さっき僕がしたように大きなため息をついて「あぁ〜」と気の抜けた声を出した。 「お疲れ様」 「いっぱい買っちゃったよ。ぬいぐるみとか、ポスターとか」 「ハルカはデパート来るたびにすごい勢いで買ってるよな」 「だって、ここにしか売ってないんだもん。それに、こういうのは一期一会だよ、一期一会」 ハルカは力説すると、また気の抜けた声で疲れたと言って、続けて暑い、とうめき声で言った。 「じゃ、アイス買って来るよ、あそこの店の。」 ハルカは俄かにぱっと輝かせて頷いた。僕は重い腰を上げて、デパートを挟んで反対側にあるベンチの近くにある屋台に近づいた。この暑さで、店は繁盛して居て、アイスを買うまでにそれなりの時間がかかった。その間も僕の耳には潮騒が聞こえた。 適当にアイスを見つくろって、ハルカが待っているベンチに戻ると、ハルカは眉間にしわを寄せて、顔を真っ赤にして俯いていた。アイスを差し出すと黙って受け取る。 「何かあったの?」 ハルカは俯きながら、顎でそっと隣を指す。傍迷惑なラブラブカップルが人目も憚らずイチャイチャしていた。男は女の腰を抱き寄せて、耳元で何か囁いている。女の方はそれになにかうっとりしているようで、男の膝の上に座って、胸のあたりにしな垂れかかっていた。ハルカはぶるぶると震えて、今にもここから走り出しそうだ。アイスには口をつけず、溶けて手に垂れかけている。 「……行こうか?」 ハルカは力強く頷いた。 ハルカの荷物は半分僕が持って、アイスを食べながら、日陰を探した。ハルカはしきりに不潔だとか、下品だと、不平を漏らしていた。僕は少し反応しすぎではないかと思ったけれど、口にせず、黙々とアイス食べた。正直、あれぐらいは別に普通だ。ハルカが潔癖性なだけだと僕は思う。 潮の満ち引きが見える。随分歩いてきてしまったようで、気付くと町の外れだ。ハルカのアイスもなくなっていたが、ハルカは、まださっきのカップルのことが忘れられないらしく、不機嫌そうなままだった。僕はハルカの荷物を持ったままで、手持無沙汰なまま何も言えずにいる。僕はハルカを恐れていた。 きっと、あの人とのことがバレたら、僕はハルカに軽蔑されるだろう。異性どころか、同性だし。この年の差だし。あれよりもっと疚しいことを、僕は平気でする。僕は不潔な人間だ。今みたいに、ハルカの言葉を、じっと聞いているしかないだろう。要するに、それが世間の反応なのだから、僕がどれほど異を唱えたってどれほどの力にもならないだろう。どれほど胸を引き裂かれたって、そんなこと世間にはどうでもいいことなのだ。それは正論に違いない。別に、構いやしないけど。だって、僕が気にしたって、あの人はまるで気にしないのだろうから。 「ハルカ、ごめん、そろそろ行かないと」 「え、あ、用事?」 「うん、約束してたの、忘れちゃっててさ」 ハルカは悪いことをしたと、ばつの悪そうな顔をしていた。僕はごめんねと簡単に謝り、ハルカの荷物を返す。ハルカはきっと自分が機嫌を悪くさせたのが問題だと思っているだろう。僕は違うよ、と泣き出しそうなハルカの顔に情けをかけてやりたかったのだけど、本当に情けがほしいのは僕自身だったので、少し笑って背を向けた。僕は大きな荷物を抱えたままで、フライゴンは僕の命令通りにびゅんびゅん風を切って飛んだ。途中で傷薬を何個か落としてしまったけれど、勿体ないとは思わず、僕は腕の中の荷物をすべて海にひっくり返してやりたいような衝動に駆られた。あの人の成金が移ってしまったようだった。 トクサネは宇宙センター以外は本当に静かな町で、町の外れになると街灯すらない。ダイゴさんはその、町の外れどころか、島のはずれに住んでいて、家の裏は崖になっている。薄暗くて、物の輪郭が捉えられない。それでも軒先のほのかな明かりを頼りに目当ての家まで降り立つ。 「珍しいね、君が連絡もせずにくるなんて」 「そんな気分だったんです」 僕は大きな荷物を玄関の隅に置いた。開け放たれた窓から、潮の匂いと波がさざめくのが聞こえる。すぅ、と息を吸うと、何時間ぶりに呼吸をしたように、肺が重かった。部屋の隅にあるデスクに何枚かの書類が重なってある。僕が連絡を取らずにここに来るより、よっぽど珍しいことが起こっていた。 「えらいじゃないですか、ちゃんと仕事して」 「なんだか馬鹿にされてる気がするなぁ」 「普段遊び呆けてるからですよ」 「うぅん、手厳しい」 ダイゴさんに苦笑いで頬を少し掻いた。僕は、ダイニングテーブルに腰かけてもう一度深く息を吸った。潮の他に、土臭さと、ダイゴさんの匂いがした。 「なんだか、今日は本当に珍しい」 ダイゴさんは、床に膝をついて僕に視線を合わせる。二、三秒水色の虹彩が揺れるのを見つめあった後、ダイゴさんは少しだけ長い、波が寄せて引くぐらいの時間をかけて僕にキスをした。目を閉じるのも、なんだか催促したようで癪だったので、眼は開いたまま、ダイゴさんの水色のまつ毛を見つめるだけだった。ダイゴさんは唇を離した後、いつもの余裕たっぷりの笑みで「やっぱり今日は珍しいことが多いね」というので、僕はその細められた目を訝しげに見つめ返す。 「いつもなら、今頃腹に一蹴り入ってるからね」 僕はそんな暴力的な人間じゃない。そうするのは、キスさえすれば僕の機嫌が直ると高をくくっているダイゴさんがまた腹立たしいからだ。そのうち潮騒ばっかりがこの部屋に響く。自分の声さえも掻き消されそうになりながら、僕はひとり言を言った。 「だから、今日はそんな気分なんです」 僕は身を乗り出してダイゴさんの首に腕を絡める。なんだかひどく甘えていたかった。せめてこの潮騒が途切れるまでは。 |
さざめく潮騒