「ここに来るのは久しぶりだな」
 大きなソファに腰を下ろす。どうせ持て余すだろうと思っていた別荘も、来るたびに物が増えて過ごしやすい環境になっていた。話しに聞くと結構な人数が遊びに来ているらしい。ジムリーダーも暇なものだ。と呆れて言うと、「色んな人と友達になれて、すごく嬉しいです」と笑う。コウキはまた新しく増やしたティーセットでお茶を入れると張り切って、そのマフラーを揺らしながらキッチンのほう消えていった。コウキが動くと、赤いマフラーが揺れる。ちょっとした仕草でもマフラーが揺れるから、それを目で追う癖がついた。道端で赤い花が揺れても振り返ってしまうのだ。そんなときの気恥ずかしさはたまったものじゃない。頭をガシガシ掻く。気恥ずかしさは残ったままだった。
 腰を深く下ろすソファはやわらかい。いったいどこにこんな物を買う金があるのだろうと思うのだが、コウキのような子供には、金を使う場所にも困るのだろう。コウキは時間ばっかりが足りないと笑っていた。俺には時間ばかりが余ってどうしようもないことの方が多かった。理由もなくジムの改造を施したり、読みたくもない本を読み漁ったりして時間を潰すことの方が多い。「幸福になりたいとおもって、幸福の研究ばかりしていた」という一節をどこかで読んだ覚えがある。俺はそれを読んだ瞬間、すこぶる感覚的な判断でこいつは幸せになれないのだろうなと思った。どこでどの本で読んだかは全く忘れたが、その一節だけは何故か記憶に残ったままだった。ふと思い出してはその男が幸せになれたのかを夢想するのだけど、記憶が霞んで思い出せない。歯がゆいとは思わないのは、どこかで男の不幸を確信していたからなのかもしれない。確か暇潰しに選んだ本だ。特に思い入れもなく記憶からは消えただろう。それでもその一節が記憶に残ったのは、その短い一節に、喉をかきむしるほどに渇き飢える自分の姿を映したからなのかもしれない。そして夢想しては諦めるのも、俺が俺自身の幸せを見限っているからなのかもしれない。明確な答えはどこにもなく、当時(というほども昔ではないように思える)の俺はただ悲観して日々を浪費していった。
 ジムの改造も街のソーラーシステムも、ただの暇潰しでしかなく、こうして日々を浪費したままただ枯れて行くのかと思うと心臓を握りつぶされるような不安に襲われた。遠くに見えるリーグだけが救いに思えた。毎日飽きもせず、レンズ越しに見えるぼやけたそれを見続けて、たまに訪れたチャレンジャーにまた失望する。単調に希望を磨り減らし続けるルーチンワークに俺は疲弊していき、いつしか自分が起きているのか寝ているのか分からなくなった。目を開けるのも億劫だったし、開けているのかすら分からなかった。ただ黙々と手を動かし続けた。
 目が、パチパチと、弾けるような、目の前で光が爆発したような、そんな衝撃で目を覚ました。久しぶりに酸素を吸った気がした。体中に血液がめぐる。ふ、と息を吹き込まれたように、心臓から指先に微かな電流が走った。目の前が開けたかと思うと、コウキの顔がいっぱいに映った。小さな子供から波紋を広げ、色を取り戻した世界を、視覚が焼き付けようとしたのかもしれない。夢を見たままと思えるほどに鮮やかな赤に目を奪われて、そのままでいいとすら思った。

「――――――ちょっと、もう、デンジさん、寝ちゃ駄目ですよ」
 どうやら呆けている間に本当に寝てしまったらしい。コウキの不服そうな顔が視界一杯になる。
「大丈夫ですか?起きました?まだ寝てますか?」
 コウキにしては珍しく、しつこく頬をはたく。ぺち、ぺち、という間抜けな音が脳味噌を覚醒させる。
「あー……すまん」
 目を数回瞬かせると、コウキは満足げに頷いて、用意し終わった紅茶をカップに注いだ。差し出されたそれを少し口に含む。まだ完全に覚醒していない感覚の舌に紅茶の味が広がる。「うまいな」と呟くように言うと、コウキは満面の笑みで頷いた。
「シロナさんから教わったんです。あ、そういえば、ナタネさんから貰った森の羊羹もありますよ」
 何がそんなに嬉しいのだろうか。コウキはとろけるような笑顔でもう一度キッチンに駆けていった。ゆらゆら動くマフラーを目が追う。コウキが完全に見えなくなると、俺はもう一度カップの紅茶を口につけた。温かい紅茶が緩々と意識を覚醒させていく。ぼぅ、と過ぎていく時間が心地よかった。
「……俺は幸せだな」
「デンジさんは大げさですねー」
 いつの間にか戻って来たコウキがまた嬉しそうに笑っていた。










過ぎる世界へ