とある少年の手記
本当なら旅の始まりからひとつひとつ、思い出しては書きとめていきたいと思うのですが、そうすると途方もない量の文章になってしまいますし、そういったものは既にレポートに書き込んであるので、今回は、僕の思うことをひたすらに書いていこうと決めました。これを書き始めるのは、僕にとっての一種のけじめでもあり、自分の気持ちに整理をつけることでもあり、彼との決別でもあるのです。 僕はこれを誰彼に見せる算段は持っていません。これはあくまで、僕の思いを形にしたかっただけで、そしてそれを少なからず伝えたいと思う相手には、何がどうあっても伝わることがなく、僕自身もそれに安心を覚える節があるので、これはあくまで、僕個人が僕だけに向けた告白なのです。 元々、幼馴染二人と違って、僕は昔から目立つ方ではなく、どちらかといえば、二人の影に立ち、二人の様子を見ては曖昧に笑っていることが多かったと思います。僕はそれに特に不満は感じませんでした。二人は僕を好いていましたし、除け物になど一度だってなったことはありません。僕自身も二人を心からの友人と呼べると信じて、今まで疑ったことなどないのです。僕は二人を信頼して、共に成長してきました。 しかし僕は自分が彼らに優っているものが何か一つでもあるだろうか、とよく考えることが有りました。チェレンとベルは僕から見ても正反対で、色相環の反対色のようなものだと、ふと思いました。言い得て妙で、自分でも笑ってしまったことをぼんやりと覚えています。二人には二人の長所と欠点がありました。僕は誰よりも二人と親しく、ある意味では二人の両親よりも近しくもあったので、僕はつくづく、二人が僕を中心にして、両端に立っているように思えました。僕には、僕は二人と違って、長所らしい長所も、短所らしい短所も思い当たらないように思えたのです。 個性というものをほとんど持たない僕には、二人の幼馴染であること、二人の最高の友人であることが個性でした。というより、僕を区別するために作られた枠組みが、そうであったのだと思います。 そんな訳で、僕は旅に出てから何度か自問自答を繰り返すことがありました。旅先で会うトレーナーたちは、僕をそんな風には見てくれないのです。トレーナーたちは、勝負の後良き友のように僕に握手を求めます。僕はそんなトレーナーたちが好ましく思い、同時に自分を持たない僕自身が情けなく、頼りなく思えて仕方がありませんでした。 ここでは、あの青年を、彼、と呼ぶことにします。僕は彼の呼称をアルファベットでしか知りませんが、僕は彼を、そんな記号のように呼ぶ気はもはや露とも起きないのです。 彼に出会ったとき、彼はまっすぐに僕を見ました。隣にはチェレンがいたのですが、彼の薄緑の目には、その場には僕しか立っていないように、彼は一度だってチェレンを見ませんでした。僕の何が、彼の目を引いたのかはいまだに分かりません。ただの偶然だったかもしれないし、何かの意思が働いていたのかもしれません。 けれど、僕は、僕と彼の関係を運命だとか必然だとか、そんな不条理なもので括られたくないのです。僕と彼の意思を離れるようなことは、僕と彼の関係ではあって欲しくないのです。 ポケモンを初めて手にし、旅に出て以来、僕は一度も幼馴染の二人に負けたことはありません。僕はそれを心の隅で驕り、また同時に、不安で仕方がありませんでした。自分の力が、自分の手を離れ独り歩きをしているように思えたのです。僕は、自分が二人に優っていることなど何一つないと思っていたのです。これは、卑屈な考えではなく、優らない代わりに、二人に劣っていることなど何一つないと同時に確信していたのです。旅の途中、彼は僕を極めてニュートラルな存在だと言いました。僕はただ、人と面と向かってぶつかり合うことが億劫なだけでした。プラズマ団、ゲーチスの演説、彼の主張。僕は、彼らの意見を否定するつもりは全く有りませんでした。心の隅で彼らの意見に賛同して居たのかもしれませんが、それ以上に、人の意見を押しのけてまで、自分の思いを喧伝しようなんて思いもしませんでした。僕はただ、何よりも僕の一番の友人であるポケモンたちと離れたくないと思うばかりだったのです。 しかし、彼が僕の前に現れては、饒舌な語り部となってしまうので、聞く分には構わないのですが、彼は僕と主張をぶつかり合わせ、それどころか実力行使にまで出てくるので、僕はそれに抵抗することしかできませんでした。 正直に告白すると、僕は彼の言うことの殆どを理解できていなかったと思います。何しろ彼は早口ですし、僕は彼と分かりあうことをほぼ諦めかけていたので。 僕は結局、彼に一度だって負けませんでした。 僕は順調にジムを勝ち続け、イッシュ地方を旅して、旅の先々で会うトレーナーや、プラズマ団に勝ち進んでいきました。僕は、空恐ろしく感じました。自分の意思とは無関係に、固まっていく覚悟も、僕の意識とかけ離れて強くなっていく僕の力も、僕には恐ろしく思えてなりませんでした。気付かぬうちに、いろいろな人に出会い感化されていただとか、旅をして自分を見つめ直すことが出来たとか、言い様はいくらでもあったのです。あるにはあるのですが、どれもしっくりこない気がして、胸の靄は晴れないまま、僕はただ渦潮に巻き込まれるが如く、深く深く過中に潜り込むのでした。 義務感、使命感。名前をつけるだけならいくらでもできたのです。しかしどれも腑に落ちずに、僕は僕が彼に向うための理由を決めかねていました。僕は歪な執着心を彼に抱いていることに気付きました。 あの時、彼のために用意された王室で向かいあった瞬間、胸、腹の底、首の裏筋、体中の毛孔からあふれ出したものは高揚でした。あの瞬間、世界はどこまでも僕と彼の二人きりのように思いました。 これは、僕の妄想でしかないとは百も承知です。これは僕の思い込みで、僕の絵空事でしかないのですが、それでも僕はあの瞬間彼との絆を信じました。言葉にすること自体が無意味に思えました。 あえて、言葉にするのなら、それは愛情だったのではないかと僕は思います。僕は確かに彼を愛していたのです。これが、世間で謳われるような正しい愛情なのかどうかと、それを知るには僕には幼すぎました。けれど、僕はあの瞬間、吹き抜けた風を理解したのです。これは紛れもない僕等の愛情であると。 世界は僕と彼の二人きりでした。 世界が僕を認識するためには、彼が必要だったのです。 対の存在足りえる彼が。 世界が息を吹き返した気がしました。耳を劈く咆哮も、何もかも、僕の意思を、意識を通り抜け、世界からはじき出しました。彼のちっぽけな世界。彼の作り上げられた真実も、全て。 彼の旅だった空はただひたすらに青かった。瓦礫から差し込む日差しが強くて、僕は眩しくて目を細めました。開けた世界は美しく、僕は世界を祝福したいとすら思いました。彼は、僕が多くの人とポケモンに出会ったからこそ彼に勝利したと言いましたが、僕にとっては、彼こそが僕の強さに必要だったのです。 文面からでも僕が興奮しているのが分かると思います。僕は今、正常な思考ではないのでしょう。しかし、それで構わないのです。恐らく、僕が僕足りえるのは、彼の前でだけなのだと僕は思います。 僕はきっと、いつまでたっても彼を探すでしょう。彼があの瞬間のように僕の目の前に現れるのを待つでしょう。それは、僕が僕足りえる理由なのです。 これは誰にも伝えることはありません。これは、僕の旅や今まで出会った人全てへの侮辱であり、不誠実な告白だからです。 これはこのまま海に流そうと思います。塩水に流されて、インクは溶け、消えるでしょう。誰にも見られたくはないから、その方が都合はいいのですが、なら初めからこんなものを書くなとは自分でも思いました。でもこの思いをまるっきりなかったことにして自分の中にしまい込むには、ちょっとばかり、荷が重く感じたのです。 あのとき、彼の涙を拭ってやれなかった僕の手の代わりに、溶けたインクが、僕と遠い彼を繋いでくれたらと僕は願います。 |
誰も知らない