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   放課後の美術の教室は僕の秘密基地に近かった。不真面目な美術部員は滅多に顔を出さないし、教室の中に満ちるほんのかすかな絵の具の匂いは不思議と落ち着く。
 昔から遠くの景色を眺めたり、一つのことをただ見続けることが多かった。なんとなくただ「眺める」という作業が好きだった。そのせいか、別に絵を描くことが好きだったわけではないのに、その作業を許されるような気がして、小さなころから美術の時間が好きだった。絵を描きたかったわけじゃないし、見たままを適当に書き写すだけだから、特に飛びぬけて上手いというわけではない。ただちょっと横からクラスメイトに覗きこまれると、上手いなぁと感心してくれて、そのときだけはほんの少しの優越感がひょっこりと頭を出した。
 進学先の学校では、芸術の授業は選択制だった。僕は何の気もなく美術を取ったのだけど、他の教科と比べた時、選択生の圧倒的な少なさは、少し驚くところがあった。
 まぁ、面倒くさいしなぁ、と納得できる部分があったので、特に気にするでもなく僕は美術の授業を受ける。何しろ課題が出たら、それが仕上がるまでは放課後は居残りだ。おかげで他の選択生はほとんど美術部員だし、いくら不真面目といってもさすがは美術部員というべきか、彼らが居残りをしたところを僕は殆ど見たことがない。
 かえって僕はテーマが変わるたびに居残った。どうせ帰宅部なうえ、特にすることもないので、ありがたいぐらいだ。
 吸いこむ空気が絵の具の匂いをしていることを忘れるぐらいの頃、決まって準備室から先生が顔を出す。
「また居残りかい?」
 明るい茶髪をした、若い先生だ。
「終わらなくって」
 明るい色のシャツをそつなく着こなす先生は、アーティさんと言って、今年からの臨時講師だ。もともとコマ数が少なく、学校に居ることも少ないので、彼を知っている生徒は少ない。
「うん、よく出来てる」
「ありがとうございます」
 ただ僕が居残っていると、決まって放課後に残ってくれているから、なんだか嬉しくなってしまう。そしてほんの少し悪戯っぽく笑っては、はちみつのたっぷり入った紅茶のポットとクッキーを振舞ってくれるのだ。はちみつが好きなのだろうか。アーティさんはいつもほんのりと甘い匂いを漂わせている。少し齧ると、クッキーもほんのりとはちみつが混ざった甘いものだった。
「ボクは君の作品、とてもいいと思うよ」
 最近は寒くなって、紅茶の温かさも心地いい。少しだけ冷えた指先を温めるようにカップを覆うと、じんわりと血が通う。アーティさんは課題の画用紙を持ちあげて、ゆっくりと見定める。
「丁寧だね。代わりに遅いけど」
「それは先生がこうやって邪魔するからだと思うんですけど」
「まぁ時間をかければいいものを描けるってわけじゃない。君の絵からは情熱を感じるよ」
 思い切りのいい矛盾だ。アーティさんはなかなか物を考えずに話す人だけど、アーティさんに言われるとなかなか悪い気はしない。何しろ彼は本物の芸術家だからだ。
「君の目からは、世界はこんな風に見えてるんだなぁ」
 感心するように息を漏らすのは、なんだか、昔僕の絵を覗き込んできたクラスメイトの物に似ていた。僕は照れ臭くなって、紅茶色をした僕を映す水面に息を吹きかけた。
「僕は先生の絵の方が好きですよ」
「それは嬉しいね。ありがとう」
 アーティさんは僕の絵を丁寧に元の位置に戻す。そして紅茶に口を付け、ふぅ、と息を吐く。睫毛の長さ、すらっと伸びる足も、女の子たちにモテるだろうになぁ、と思わないでもない。
「甘いの好きなんですか」
「ん? …ん~、どうだろうねぇ。まぁ、疲れてる時は甘い方が良いっていうし」
「先生疲れてるんですか」
「そりゃ疲れるさ。一つの作品に全身全霊を賭けるからね」
 ず、と紅茶を啜る音が先生と重なる。
「全身全霊は大変ですね」
「そう、大変なんだよ」
 僕がもう一度紅茶をず、と啜ると、アーティさんはクッキーを一つ頬張った。
「この前やっと出展する絵を書き終えてね、今は、まぁ、休養といったところだよ」
 生徒に教えることが休養になるのかは疑問だけど、全身全霊で作品に向かっているよりは、多少なりとも気が楽なのだろうか。以前、アーティさんの絵を見せてもらったが、それはやっぱり言葉に出来ないものがあった。あぁそういえば、アーティさんの目には、世界はこんな風に見えているのか、と感心したような気がする。
「ところでですね、個展のチケットが一枚余ってるんですが、行きませんか」
「君は行かないのかい?」
「高校生は無料なんですよ」
 アーティさんは苦虫をかみつぶしたように眉間に皺を寄せた。
「その個展ってまさかとは思うけど、」
 僕は鞄から一枚チケットを取り出して、無言で頷いた。アーティさんは渋い顔のまま、案外性格の悪い子だな、とひとり言を呟くと押し黙ってしまった。さすがに駄目か、と底が見えそうになっていた紅茶を飲み干す。続けてクッキーに手を伸ばすと、アーティさんはお茶に誘うように悪戯っぽく笑った。
「それはいいけど、じゃあ、君モデルをやってくれよ。君が絵を描いている姿を一度描いてみたかったんだ」
「ええー」
「いいじゃないか、これでボクに邪魔されずに済む。じゃないと一緒に行ってあげないよ」
「ええー」
 アーティさんは悪戯っぽい笑顔のまま、僕のカップに新しい紅茶を注ぐ。教室は蜂蜜の甘い匂いでいっぱいだ。










メルティメルティ