ダイゴさんがいなくなった。
 元々放浪癖のある人だったから、始めのうちこそ騒がれることはなく、またか、と人々は苦笑いを浮かべただけだった。
 ダイゴさんは僕の知る限りとても自由な人だった。自分に自信があって、それに見合う能力と、責任感があった。お金持ちの価値観に戸惑うことはあったし、その自由さに苛立つこともあった。しかし通して見ると、僕は彼が好きだった。尊敬していたし、目指すべき相手でもあった。
 一か月、二か月、三か月、苦笑いをしていた人も、溜息と文句を垂らすようになる。彼は、確かに元々自由な人ではあるが、あまり長期間姿を暗ませると、滞る仕事もあるのだろう。四か月、五か月、六か月、今までにない長い期間にもなると、誰もが眉を顰め始めた。ダイゴさんは自由で奔放な性格だが、無責任な大人ではない。長期間の、連絡もない失踪は、彼の身の安否を気に掛ける人が出てきて、ミクリさんの溜息がかなり増え始めた。七か月、八か月、九か月、ざわざわ、とホウエンにくだらない噂が流れ始めた。十か月、十一月、一年。人々はダイゴさんを忘れ始めた。彼と親しい人は始めから、彼が安否を心配される様な人物でないことを知っていた。
 そう、彼は強くて、自由で奔放な人。そして意思の固い人だ。責任の重圧から逃れるなんて、そんなやわな人でも臆病な人でもなかった。彼のハンサムな顔はいつも自信で満ちていて、振舞は上品で、誇り高く、そして何よりも自分の気持ちを大切にする人だった。こうやって姿を暗ますにも何か、彼をそうさせる理由があったのだろう。誰にも理由を告げず、誰にも行き先を告げず、彼はたった一人で何処かへ旅立った。  二年、三年、四年。世界はダイゴさん無しでも回っていく。まるで、始めからダイゴさんの居場所なんてなかったかのように回っていく社会に、僕はほんの少し苛立った。中には、もうダイゴさんはホウエンに戻らないと考えている人もいる。僕は何も言わなかったが、それを心の中で淡く、けれど絶対的な自信を持って否定した。
 何処かへ旅立つ前に、ダイゴさんは僕に会いに来た。
 いつも通り神出鬼没に、やぁ、と手を上げたダイゴさんは、やはり自信に満ち、薄く不敵に笑う。バトルを挑まれ、僕は辛くもダイゴさんを破った。ダイゴさんはきゅ、と唇を結んだかと思うと、力を抜くようにふと穏やかに笑った。
「君は、本当に、強くなったね。」
 僕は少し面喰いながら、顔が赤くなり、ありがとうございます、と返事をした。ダイゴさんはそれにも穏やかに笑いかけ、「君はまだまだ強くなるよ。」と初めて出会った時と、同じような声色でそう言った。もう一度僕に歩み寄ったダイゴさんは、リーグで彼を破った時と同じように僕に握手を求めた。そしてそれに応えた僕の手に、ダイゴさんはひとつ、指輪を残していった。アクセサリーでごちゃごちゃした手から、指輪が一つ減っていて、僕は理由を聞こうと彼を見上げた。ダイゴさんは相変わらず薄く微笑み、その僕を試すような目に、僕は息をとめた。
 挨拶もそこそこに、ダイゴさんはエアームドで飛び去った。それから数年、噂すら聞かない。
 ダイゴさんが僕に残した指輪は、冷たく光を放ち、いつまでも僕の手の中にあった。ダイゴさんの左手にはまっていたその指輪は、僕のどの指に通してもぶかぶかで、僕は指輪に紐を通し、首から下げることにした。じんわりと僕の体温が、冷たい金属に伝わって淡く熱を持った。けれど、そこにある指輪の感触はいつまでも胸に残って、その冷たさも、僕の胸をいつもなぞる。
 ダイゴさんは、何も言わずにこの指輪を僕に残した。何の意図があるのか、僕には理解できなかったけれど、なんとなく、その指輪を僕は持ったままにしていた。時折指輪を光に透かして見ると、冷たい鉱物はその光を反射して、夕日の光ならその暖かな光を分散して、海に散らばる、万華鏡のような光に透かすと、それはその一部のようにその光に溶けた。
 何度か手放すことも考えた。しかし、洞窟の中でそれは、淡く、青い光を宿しているように見えた。それが、ダイゴさんの瞳のように見えて、僕はそれが捨てられなくなった。この指輪さえ、僕が持ち続けているのなら、この青白い光を頼りにダイゴさんがいつか、いつものように神出鬼没に僕の前に現れてくれるような、そんなこの指輪が宿す光のようにかすかな希望が捨てられなかった。
 もう帰ってこない、と誰かが呟く度に傷ついた。帰ってきてくれるはずだと、願い、それだけで時間は過ぎていった。ホウエンには珍しい、降り積もった雪にひとり分の足跡をつけながら、そうか、あれは憧れにも似た、恋だったんだ、と僕はマフラーに耳まで赤くなった顔を埋めながら気付いた。
 時が過ぎる分、僕の背は高くなっていった。目に映る景色も、人も、変わっていった。その中で、僕の胸で揺れる指輪の放つ光がそのままであることが、救いに思えた。それが淡くでも、光を保ち続けることで、僕の思いもきっと、変わらないままでいることができた。変化が恐ろしかったのではなく、変化の中で、ダイゴさんを忘れてしまうことが怖かった。
 ダイゴさんの青い光を宿した、鉄の色をした瞳が、不敵に細められるのが、今でも思い出されるのに、指輪の光のように、その光が変わらない。僕の風貌が固く、筋張ったものになったように、ダイゴさんもまた、同じように変わっていっているのだろう。例えそうであっても、僕はダイゴさんを見つけられる。しかし、ダイゴさんはどうだろう。彼と違って、僕は変わりすぎただろう。僕はもう子供ではなくて、大人にもなりきれない、その狭間に落ちた、ただの新人類だ。
 ちゃりん。
 胸に揺れる指輪が、囁く。吐息が漏れた。横から差す夕日が、胸を照らし、指輪が暖かい光を灯す。首から外して、手のひらに乗せるとその光とは真逆に、人の温かさを知らない冷たさが浸透する。それを覆い隠すように握りしめるが、冷たさはじんわりと手のひらに伝わる。
「やぁ」
 声の通りに振りかえると、数年前と同じように手を上げていた。
 ほんの少し増えた皺も、老成した表情へと変わったその微笑みが、つい先日にはち合わせたと思えるほど、懐かしさを感じさせなかった。
「ひさしぶりだね」
 目を細め、薄く、自信ありげに微笑む。
「あぁ、まだ、持ってくれていたんだね。」
 そう言って、ダイゴさんは握りしめられた僕の手を包む。一本一本花弁を開くような優しさで、僕の握り拳を解いていく。ちゃり、と囁いた指輪を、ダイゴさんが掬う。ダイゴさんの指が肌に触れる。びくり、と震えた僕に、ダイゴさんはまたその瞳を細めて、不敵に笑った。
「ただいま」
 ダイゴさんはそう言って、失踪する前と何も変わらずに笑った。左手の薬指にそのまま、それを嵌めた。
「あぁ、まだ緩いね。やっぱり、君に合うのを改めて作ろうか」
「だ、ダイゴさん……」
 ダイゴさんがまた、穏やかに目を細める。
「ありがとう。ずっと、持っていてくれたんだろう?」
「それはっ………」
「僕のことを、待っててくれていたんだろう?」
「そんな………!」
 ことは。無い、とは言えず、口を閉じた。ダイゴさんは、それにも笑って、もう一度握りしめられた僕の手を包んだ。
「ありがとう。ねぇ、これからはずっと一緒に居よう」
 涙が目尻を濡らす。ダイゴさんはそれに、ちゅ、と口を寄せた。青白い色を放つ、白銀の指輪が夕日に照らされ暖かな光を宿す。





彷徨い惑い終着