コウキはナギサシティに来ると、必ず展望台に登って、ナギサで一番高いところから街を見下ろした。青いソーラーパネルがキラキラ反射して、まるで海のようにコウキの足下に広がる。きれいな町だ。コウキは、わぁと感嘆の声を上げた。
素敵な街だなぁ、とコウキは大きなガラスに顔をぐっと近づけた。コウキに呼吸に、ガラスは少し曇った。遠くの海と町の外れが交わっている。どこからが海で、何処からがナギサの町並みなのか、日を照り返す青いソーラーパネルがその境界をあやふやにさせていた。ナギサシティはその名の通り、渚の町だ。さざ波が町に溶け込み、町は海に溶け込む。 まるで、彼の瞳のようだなぁ、とコウキはニヤける。 ナギサシティに足を運ぶ度、コウキはデンジと一戦を交えていた。デンジはコウキを見つけると、まるで母親を見つけた迷子のように顔を、ぱっ、と明るくさせる。そして嬉々として、コウキにバトルを挑むのだ。気だるげな彼の目が、子供のようにキラリと光る度、コウキは何だか分からない胸騒ぎに襲われた。それも初めはほんの少しの動揺だった。心臓の規則的な動きが、1秒速くなっただけの、会話中の息継ぎが少しずれただけの、そんな些細な違和感だった。彼の海のように真っ青な瞳が、嬉しそうにたゆたうと、そんなものは跡形もなく消えてしまった。デンジの、海に宝石を散りばめたような瞳をコウキは覗きこみ、彼の挑戦を申し受けるのだ。 コウキはデンジとのバトルを楽しみにしていた。コウキ自身の訓練にもなるし、何よりデンジがそのバトルを楽しんでいるのが、手に取るように分かる。デンジが指揮を執るポケモンが放つ閃光が、コウキの感覚を研ぎ澄まされる。ピリピリと空気を伝わる刺激が心地良い。 「よぉ」 ぽん、とコウキの肩に大きな、筋張った手が置かれる。 「デンジさんっ」 「街に来てるなら、一声かけろよ」 「今来たばっかりですよ」 「じゃあ真っ先に俺のところに来いよ」 まるで当然のことだとでも言うように、憮然としているデンジにコウキは苦笑いを零した。隣に並んで街を見下ろし始めた、デンジを見上げて「じゃあ次からそうします」と苦笑いのまま答える。デンジはまだ不安そうに眉を顰めたままだったか、コウキの言葉に小さく頷く。まるで子供のようだなぁ、とコウキは笑った。不満そうにしている顔が、ジュンにあまりにも似てるのでコウキはくすくす笑った。「なに笑ってんだよ」と、デンジがコウキの頭を乱暴に撫でる。表情の和らいだデンジに、やめてくださいよーと笑いながらコウキはずれた帽子を直した。 「でも、僕が初めて来たときは、デンジさんは展望台にいたじゃないですか」 「暇だったんだよ」 日が差し込む渚の展望台から、人影がぽつりぽつりと減っていく。話し声がコウキとデンジの二人だけになると、デンジは改めて街を見下ろした。傾き始めていた日が、ナギサを青から橙に塗り替えていた。コウキもデンジに習い、街を見下ろし直す。またその顔色を変えた街に、コウキは感嘆を繰り返した。 「ナギサシティって、……本当に素敵な街ですねぇ……」 夕日を見るには、ナギサがいっとう美しい。高い展望台から見下ろす町も海も、星を散りばめた茜に染まる。コウキは静かに息を吐く。しかし、それに比べても、デンジの美しいナギサの景色を見下ろす瞳は、とても無感動で冷淡なものだった。 「そんな大した町じゃねぇよ……ちっぽけで、くだらない街だ」 コウキの言葉に答えているのか、デンジは小さく呟いた。ぼそり、と人のいない展望台にその言葉は空虚に転がる。コウキはデンジの瞳に射し込む光を覗きこんだ。 デンジの瞳は、コウキがこの展望台で初めてデンジと会った時のように、暗く、無感動だ。コウキはそっ、と誰にも知られず息を詰めた。鼓動の速度を、ほんの一息分速めた。そして、ナギサの美しい街並みを見返すこともできず、自分の汚れた靴の爪先を見つめた。デンジはそれに気付かず、俯くコウキに話しかける。 「コウキ、もう飯は食ったのか?」 「あ、……まだです」 「そうか、じゃあ飯奢ってやるよ」 ついでに泊ってけよ、と言って出口に向かった。コウキは、デンジのその背中を少し見送る。その大きな背には、この綺麗な景色が見えなかったのだろうか、それとも、彼の眼には本当にこの景色も、くだらないものに映ったのだろうか。コウキは静かに、唇をきつく結んだ。胸の真ん中に、異物が入ったような感覚がした。異物は喉までせり上がったが、コウキはそれを飲み込み、エレベーターの前でコウキを振り返るデンジへ、小走りに駆け寄った。 起伏の激しいナギサシティは、歩道橋が多い。お勧めのレストランに案内してくれるというデンジの後ろについてコウキは歩く。展望台程ではないが、高い場所から街を見下ろせる。横から射し込む夕日に眩しさを感じ、コウキは目を眇めた。 いつか、デンジは何もかもつまらない、くだらないと、無感動に、噛み潰した苦虫を吐き出すかのように、呟いた。それを聞いた瞬間、コウキは何も言えなくなってしまう。眩しさに、眼を眇めた先にある、溶けあう街と海は、こんなにも、きれいなのに。 「電話、出ないんですか?」 ぴぴぴぴ、デンジのポケットから着信音がなった。なにげなく、その背中を追うと、デンジはそれを確認もせず、その音を切断した。 「あ、あぁ、どうせくだらねぇことだろ」 「くだらないことですか」 無関心そうな抑揚のない声で、デンジは携帯を元のジャケットのポケットに戻した。それを目で追いながら、コウキはまた、胸に大きな異物の感覚を覚えた。マフラーの下に手を滑り込ませ、服越しにその胸の異物を押さえつけた。 デンジが、かんかんと靴裏で音を立てて歩道橋を下っていく。デンジが下りていくのに続くと、目の前にデンジの頭があることにコウキにコウキは少しだけ違和感を覚えた。 かつん、かつん。二人分の靴音がかすかに響いていた。 「僕も」 徐に、独り言のようなコウキの言葉にデンジが振りかえる。コウキはあの展望台の時のように、自分の爪先に視線を結んだままで、デンジの顔を見ることは出来なかった。 「僕も、くだらないですか」 胸に湧いた異物が、いつか、何も言えずに飲み下した言葉がコウキの口から零れた。わっ、と泣きだしたくなるような感情が、はじけた異物から吹きあげた。 「ナギサシティも、あの景色も、何もかも、僕も、」 くだらないですか、と続けたかった言葉は、萎んでしまった異物に吸い込まれた。 初めて会ったデンジの瞳は暗く、無感動で、何もかもに無関心だった。それはデンジの元来のものだったのかもしれない。しかし、デンジは、コウキと関わるときだけは、あの見下ろした海やナギサシティのように、青い、その色に宝石を散りばめてくれる。だからコウキは、期待していた。デンジのその瞳にはきっと、その美しさと同じように、世界は見えているのだと。 少なくとも、コウキにとっては、デンジと見る、夕暮れは、景色は、世界は、こんなにも、美しいのに。 「な、」 デンジが狼狽しているのが、コウキには手に取るように分かった。言葉が震えている。 「泣くな」 「泣いてません!!」 「泣いてるじゃねえかっ」 「泣いてませんったら!」 デンジが、コウキの腕を取る。大人のその手の力強さに、コウキは少しぎょっとした。コウキが怒鳴ったことに、少なからず、デンジは動揺した。ぐ、とデンジの手に力がこもる。痛みにコウキが小さな悲鳴を上げると、デンジの手の力は触れているのかも分からないような小さなものになった。 「………思って、ねえよ」 デンジが、言葉をひねり出す。コウキがやっと顔を上げると、いつもは見上げるその顔が、今はコウキと同じ目線だった。けれど、涙の膜で、デンジの顔がぼやけてしまう。力強く否定したあとでは、それを拭うのも出来なかった。 「お前がくだらないなんて、そんな訳ねえだろ」 デンジが、呟くように、けれどはっきりと言葉にする。 「そんなこと、一回も思った事ねえよ」 デンジの手がコウキの目の下をなぞる。親指に、涙が幾分か攫われて行って、コウキにはやっとデンジの顔が見えるようになった。横から差す夕日に、デンジの青い瞳は、溶けあう海とナギサシティのように茜に光を散りばめていた。コウキはまた、息を詰めた。 デンジの顔が間近に、眼前に、デンジすら見えないほど近く、遠くに広がる、渚と、海が見えた。 「お前に会ってからは、楽しいよ、毎日」 デンジはふぃ、と踵を返し、歩道橋を足早に下りていく。茜色の世界では、デンジの耳すら、赤く、やはり等しく、コウキの顔も赤い。 |
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