木目の机にかたん、と冷たい水が入れられたコップが置かれる。
「辛そうだね」
 ダイゴの声が頭上から降ってきて、ユウキはやっと自分の側にダイゴが経っていることに気付いた。淵を持っていた手がコップから離れる。手を上げるもの億劫で、ユウキはぬるく体温が移ってしまったテーブルに突っ伏したまま、ぶらん、と腕を揺らしただけだった。するとダイゴはくすりと笑って、突っ伏したユウキの体を起き上がらせ、口元にそのコップを運ぶ。故意か、無意識か、ダイゴの手はユウキの嘔吐感の中心を支えにした。不快感は喉元までせり上がるが、それをそのまま吐き出すことは、ユウキのプライドが許さなかった。
 コップの淵がユウキの唇に触れる。その冷たさが惹かれて、ユウキは薄く唇を開けた。ダイゴはコップをゆっくりと傾け、ユウキの唇に水面をユウキの薄く開いた唇に注ぐ。コップの表面を曇らせるその冷気は心地良く喉を下って行ったが、胸の下あたりの肥え溜めの一部に入ると、清涼感も一瞬で消え去って不快感が広がるだけだった。水面の嵩が減らなくなったのを見計らって、ダイゴはコップを机に戻した。
 同じく木目の椅子の背もたれに身を預けているユウキは体を弛緩させ、虚ろな目で容量を半分ほど減らしたコップを見つめた。見つめただけで、何かの意図があったわけではない。そこにコップがある、考えているのはたったそれだけだ。思考も体も、倦怠感と、胸元の吐き気に蝕まれて、ろくに働かない。
「大丈夫?」
「……そう見えるなら、眼科行ったら」
 トーンの低いユウキの返事。機嫌の悪さよりも疲労の色合いが強かった。ダイゴは、はは、と軽やかに笑ってそのコップの残りを飲みほした。
「無理して、飲むからだよ」
「あんたが煽ったんだろ」
「そんなつもり、毛頭なかったよ」
 ユウキの動きは視線だけ、怒りを伴ったそれは薄く笑うダイゴを厳しく射抜く。
「あんな強いお酒、何かで割って飲まないとひっくり返っちゃうよ。ただでさえ、飲みなれていないのに」
「あんた、それ、黙ってただろ」
「まさか」
 ダイゴは薄笑いの微笑みを益々深くする。ユウキはその視線を一際鋭く、視線で射殺すほどのものにしたが、くらり、と熱を持った体と嘔吐感が、ユウキの気力と怒りを根こそぎ奪っていった。力なく、背もたれによりかかるユウキの顔はぼんやりと、赤い。照明すら不愉快だと呟くと、ダイゴは家の照明を暗く、間接照明の橙色だけにした。
「吐いてしまった方が楽だよ」
「絶対ヤダ」
「でも、今のままじゃ横にもなれないだろう?」
 ユウキは黙り込む。ダイゴはくすり、と困ったように笑った。
 いけしゃあしゃあと、怒りがまたふつふつと胸に湧く。嘔吐感と相俟って気分は最悪もいいところだ。ダイゴを睨み直す気力もなく、ユウキはテーブルの木目の一点をひたすら見つめた。押しては引く吐き気は、時が増すほどにその波を大きくしていた。時折、喉の間際までせり上がったそれを、胸に押し返すようにユウキは体を強張らせる。ダイゴは心配そうに小さく息を吐く。しかしユウキには、その瞳が楽しげに揺れていることがありありと分かった。この変態野郎。喉元に広がる苦い味を噛みしめながら、ユウキは心の中で悪態づいた。
「でも、このまま放置しておくわけにもいかないし、無理にでも吐いてもらわないと」
「嫌だって言ってるだろ……」
「だから、無理にでもね」
 何を、とユウキは緩慢な動作でダイゴを見た。
 と、同時にユウキは目を大きく見開く。
 ダイゴの手がユウキの顎を掴んだ。力任せに引っ張られ、ユウキの体は前後に大きく揺れた。疲弊し、熱に蕩けた思考では、体の反応もその唐突さに付いていかなかった。しかし、鈍いユウキに反して、ダイゴの動きは素早い。薄く開いた唇に、ダイゴの唇が触れたとユウキが認識した時、既にダイゴの舌がユウキの口内に入り込んでいた。
 ダイゴの舌は、ユウキの上顎を舐めたかと思うと、そのまま、ユウキの喉へと舌先を伸ばした。ユウキの瞳がまた大きく見開かれ、そのままユウキの動きが止まった。ダイゴの舌は前進し、ユウキの喉の奥を舐めた。ディープキス、などと、そんな色気のあるものではなかった。ユウキの後ろ頭を強く抑え、驚きに開かれた顎にまた、ダイゴの舌は奥へと進む。陰茎を咥えるほどの圧迫感はない。しかし、それと喉の奥へと侵入した異物を、ユウキの体は拒絶した。
 衝撃が感覚と共にユウキにが胃の内容物が逆流を始める。喉が開き、その苦みが二人の舌に伝わる。
 眼球が飛び出るほどに目を見開いたユウキは、ダイゴを突き飛ばし、腰を浮かせていた椅子を跳ねのけて、一目散に洗面台へと走った。
 がたん、がたん、ユウキが廊下や扉にぶつけながらトイレに向かうのを、ダイゴは尻餅から立ち上がり、ゆっくりと追う。
 げぇ、とユウキの嗚咽が響くと、びちゃびちゃ、吐瀉物が滴る音が続く。生理的な涙が目尻に浮かぶのも拭えずに、ユウキはトイレのシンクにうなだれた。便器の中には夕食に食べたままの、野菜や、形をなくした肉、無理に煽った強いアルコール。逆流した胃液が喉を焼いた。嘔吐感と不快感は消えない。体調よりも、精神的な問題だった。
 ぜぇ、ぜぇ、荒い息で喘ぐユウキの後ろにダイゴが立つ。
「あのまま吐いちゃってもよかったのに」
 ダイゴはトイレに踏み入って、ユウキの背中に触れて、ゆっくりと撫でる。
その、薄ら笑いのままのダイゴの声が落ちてくる。この変態野郎、ユウキは言葉にも出来ず、涙を滴らせた。
「ねえ、ユウキくん」
 喉は焼け、喘ぎは収まらないが、爽快さも、いくらか戻っている。嘔吐感は波を引き、そしてまた大きなものとなってユウキの胸を突く。もう一度胃の中をひっくり返したけれど、背中をさするダイゴの手が温かく、ほんの少し心地良かった。
 それから、横目から覗くダイゴの口元が薄く弧を描いてることに、少し安心した。
 ユウキにとっては良い迷惑だが、自分を思ってのことだ、感謝のひとつでもしてやろうと口を動かそうとしたが、喘ぎが苦しくてうまく言葉に出来ない。
 ダイゴは穏やかに笑ったまま、ユウキの背中を撫で続けた。
「君、セックスしてる時と同じ顔してる」
 嘔吐感がまたぶり返した。










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