広く、見上げるほどの天井も、ワタルさんが通るなら、その高さも広さも相応しいものに思えた。足音は赤いカーペットに吸い込まれ、人気のないリーグは静まり返っていた。人の息遣いのない場所で、ワタルの気配だけが近くに感じられて、俺は押し黙って下を向いた。大きな、黒いマントの裾がゆらゆらとはためいて、ワタルさんの靴の、踝が見え隠れしていた。俺はそれをじっと目で見つめながら、ワタルさんの後ろを付いて歩いた。黒のマントの裏地は真っ赤な色をしていて、裾が翻って踝が見え隠れするのと一緒に、その赤い布地が垣間見えた。
 むずむずとした感触が胸につっかえ、息苦しさを覚えた。俺はとても恥ずかしくて、顔を上げることが出来ない。ワタルさんの足元に、なにか大切なことが書いてあるかのようにじっと、そこから視線が動かせずにいた。
「好きです」
 口走ってしまった言葉に、みるみる血の気が引いていった。俺はワタルさんの踝や、マントの裾がひらめくのすら見ることが出来なくて、自分の汚れた靴の爪先を見つめることしか出来なかった。心臓は恐怖で縮みこまってしまって、訳もなく鼓動を走らせた。気が動転して、呼吸の仕方すら忘れたみたいだった。
 しかしワタルさんは、そのマントを翻して、俺の頭に柔らかく手を乗せた。そして、優しく、頭を撫でた。まっ白になってしまった思考が、ワタルさんの手に戻ってくる。背の高いワタルさんは膝をついて、俺の顔を覗き込み、ベビーポケモンに笑いかけるように「それは、違うよ」と俺に言い聞かせた。
「君にはお父さんがいないから、きっと俺を父親みたいに思っているんだろう」
 俺はワタルさんの顔を見返してその続きを聞いた。ワタルさんの表情はとても優しく、大人の人の寛容さと理知的な思考が、続く言葉にも乗せられていた。
「それで少し、混乱しちゃったんだね」
 ワタルさんの言葉は、優しく、慈しみを込めて投げかけられたのかもしれない。眉尻は優しげに下げられ、見たこともない、温和な微笑みだった。ワタルさんはその間もゆっくりと俺の頭を撫でて、俺は訳も分からず、ぼろぼろと涙を流した。嗚咽ばっかりが口から溢れて、そんなことない、とワタルさんの優しさを突っぱねるような言葉は、ワタルさんの大きな手が抑えてしまった。頭を撫でる手は大きく、力強いそれが、壊れ物を触るみたいに俺を撫でるのが気に入らなく、それ以上にその手の優しさから離れがたくて、俺は涙が止まるまでその手を払うことが出来なかった。
 優しくも、残酷な言葉が胸を抉りだして、俺は言ってはいけなかったその言葉を、ワタルさんに再び伝えることが出来なかった。それどころか、穏やかながらも凛とした、反論を許さないワタルさんの言葉を、信じてしまいたかったのかもしれない。
 いま思い出せば、ひどい話じゃないか。
 俺がそう言うと、テーブルの向かいで新聞紙を睨みつけていたワタルさんが、困ったように俺を見た。
「今更、そんなこと言われてもな」
「今更とかそんなの、関係ないよ」
 温められたコーヒーを入れたマグカップで冷えた指先を温める。ワタルさんはますます困った顔で、読みかけの新聞紙をたたんだ。
「でも、それ以外どうしようもないだろう。あの時の君は、恋と憧れの区別もつかない子供だったじゃないか」
「じゃあ俺の為だったっていうわけ?」
「………そう言ったら、君は怒るだろ」
 そりゃ怒るよ!と机を叩く。ワタルさんは湯気を立てているコーヒーを啜り、ゆっくりと言葉を選ぶように喋った。思うと、あの時もこんな風にゆっくりと言葉を選んでいたような気がする。
「でも実際そうだったじゃないか」
「そんなの分かんないよ。全部ワタルさんの想像だし」
 突き放すように言うと、ワタルさんも癪に障ったのか、渋い顔でコーヒーを啜った。気まずさが喉に苦い味を広げる。コーヒーの美味しさには少し前に気付いたぐらいだ。思い出と一緒に、味覚まで逆行してしまったのかもしれない。大人げないな、と思い返す。俺も、ワタルさんも。
「本当に俺の為って言うならさ、あの時、きっちりと振っといてくれないと」
「それは……」
 言葉に言い淀むワタルさんに、俺は笑いかけた。
「出来ない?」
ワタルさんは今度こそ黙り込んだ。俺はまた笑って、思いつめたような顔でコーヒーを見つめるワタルさんを見た。
「そうだよなー……」
 ワタルさんは小さな波紋を繰り返すコーヒーから視線を外さずにいた。そこにこの問答の答えが書いてあるように。その姿は何となくあの時の俺の姿を思わせて、俺はあの時のワタルさんと同じように、わざとらしく残酷な言葉を選んだ。
「ワタルさん俺のこと好きだもんね」
 コーヒーの波紋が大きく揺らいだ。色だけが違うマグカップを握る手に、緊張の筋が浮いた。
 いつの間にか用意されていた二組のマグカップには始め、俺の為に用意されて、今はもう飲まれなくなって棚に余ったままのココアが入れられた。二人がこうして向かい合うと、ココアの甘い匂いとコーヒーの甘い匂いが混ざって、飲み比べをしては、その味の違いに顔を渋めた。ワタルさんの家の冷蔵庫にはいつも牛乳が置いてあって、ワタルさんが口にしないそれが、なぜワタルさんの家にあるかというと、ワタルさんが俺の為に用意したものだった。
 表情の動きや、言葉の合間合間の空気を読み合えるほどには、一緒に時間を過ごした。
「ワタルさんって、そういうの、すごく不器用なの、生まれつき?」
「……そうかもしれないな」
 こと君に関しては特に。ワタルさんは苦々しげな、険しい顔でコーヒーを啜った。ワタルさんに教わったコーヒーの美味しさを、ゆっくりと飲み下しながら、俺は喉の奥で笑った。
「今でも、俺の気持ち、憧れとか、勘違いだとか言うの?」
「本音を言えば、」
 俺の言葉をかき消すように力が込めた口調に、俺は口を噤み、代わりにコーヒーを啜った。黒い液体を飲み干すと、マグカップの白い底が見えた。俺はそれをじっと見つめたけれど、当然のようにそこに答えが浮かんでくることもありはしなかった。
「憧れや勘違いだったとしても、嬉しかったよ」
 会話の合間に落ちた沈黙を、気まずいと思ったことはなかった。けれど、この瞬間の沈黙は、あのむず痒さにも、あの胸を詰めた苦痛にも似ていた。
「ワタルさん、久々に、ココア、飲みたい」
 苦し紛れの言葉にワタルさんは何も言わずに席を立って、俺のマグカップをシンクに持って行った。ワタルさんの後姿にはマントは付いていなかったけれど、俺はそれでも何となく気恥ずかしく、やっぱり踝を見つめてしまう。あの時、俺の背がもう少し高ければ、あの赤くなった首筋に気付けたのだろうか。










盲目にはなれない