ベランダの手すりに肘を突き、デンジはナギサの灯台が遠くの水平線を照らしているのを眺めた。じりじりと口元に迫るタバコは、少し湿気っている。肺一杯に煙を吸い込むと、苦味が気分を落ち着かせた。何個か控えが戸棚の中に眠っているが、最後に吸った日をあまり覚えていなかった。これも、クローゼットの隅に追いやられていたジャケットのポケットで、くしゃくしゃになっていたのを見つけたものだ。肺から吐きだす煙が空に昇っていく。灰がぽろぽろと落ちていくが、デンジは気にも留めない。灰皿の在り処が分からないのだ。代理の携帯灰皿は、多分どこかで落としたのだろう。ニコチンがなくては生きていけないと信じていた時期もあったというのに、禁煙をする気もないうちに達成していると思うと、すこし可笑しかった。久々のタバコの苦味はやはりうまく、今まで吸わずにいたのが不思議なぐらいだ。
 冷たい空気が数段タバコを美味しく感じさせる。一本目を皮切りに立て続けに吸い始め、元々残り少なかったタバコはもう最後だ。くしゃりと握りつぶしたケースを投げる。小さな放円を描いて、ごみはすぐ下の生垣に隠れた。咥えたタバコの火が唇すれすれに近付くまで粘ったが、それも数秒で終わった。
 サンダルで吸殻を踏みにじる。じゃりじゃりと不快な音に、ちっ、舌打ちが渇いた音を立てる。真夜中の寒さのせいか音は案外大きく聞こえて、何に遠慮したのか、改めて小さな舌打ちをしてから部屋に入った。
 ビールの空き缶とつまみのビニール、インスタントの空容器が散乱している部屋だ。ところどころに大きなゴミ袋が点在している。最近はこんな光景も見ていなかった気がする。ちゃんと認識していなかったのだと言われたら、きっと否定は出来ないが、こんな歩くのにもやっとの感覚は久しぶりだ。ちょうど、さっきのタバコとおんなじぐらい。
 邪魔なごみを蹴り飛ばしながら、台所の冷蔵庫に向かう。午前二時の空腹を訴え始めた腹に何かを詰め込もうとしたのに、冷蔵庫はもぬけのからだった。腹にたまりそうなものは驚くほど見当たらない。試しに、なにかわからないビニールでしばられた黒っぽい塊を手に取ってみたが、それを食べるぐらいなら飢えの方がまだまともだ。かろうじてまともな形をしているのが、手前にこじんまりと収まっている牛乳だった。それすら賞味期限は見るも無残な数字を示している。
「あーぁ」
 嘆息を漏らしながらデンジはそれを取って、封だけ切られた、満タンの牛乳を洗面台に流す。ひっくり返すとそのまま、どぷ、どぷ、白い川が出来上がっていく。デンジは牛乳を飲まない。むしろ、嫌いなぐらいだった。何故牛乳が手つかずのまま冷蔵庫に収まっていたのかというと、これは、デンジがコウキのために買って来たからだ。
 
どぷ、どぷ。
 
 白い川が排水溝に呑まれていく。荒れすさんだ部屋の前では、この行為も無駄な足掻きだ。デンジははっきりしない頭をぼりぼりと掻いた。何故だか、ここ最近の記憶が曖昧で、はっきりしない。積み上げられたインスタントの容器を見るに、どうにか生活はしていたようだが、その間の記憶はすっぽりと抜け落ちている。

 どぷ、どぷ。

 豆電球だけの照明と曖昧な意識が相俟って、視界の彩度が異常に低い。しかしこの視界には覚えがあった。ぼりぼり、とデンジはもう一度頭を書いたが、それがいつのことだったかは思い出せなかった。食事はいつしたのか、酒の缶は開けたのか、風呂はいつ入っただろう。デンジは首をかしげる。不思議なほどここ最近の記憶が飛んでいる。しかし、この感覚には覚えがあった。
 あぁ、とデンジは深く息を吸った。 
 思い出したくもない、数か月前だ。湿けて火のつかない、煙草みたいに鬱陶しい日々だ。おそらく自分は、毎日息をしていただろう。適当な時間から寝床を抜け出して、寝ぐせまみれのままジムに足を運んで、その一番奥で胡坐をかいていた。適当に腹を膨らませて、詰らないばかりのチャンレンジャーに飽き飽きしていた。
 退屈はゆるゆるとデンジの首を絞める。
詰らない日々に目が霞んだのだろう。この頃の記憶を思い出そうとすると煙草の煙を掴むように空ぶるばかりだ。

ぽつ。

 牛乳の滴がシンクを打った。
 結局誰の胃袋にも行渡ることなくこの牛乳は排水溝に呑みこまれて行った。  デンジは牛乳を呑まない。牛乳で割るような、甘ったるいアルコールは好みじゃない。コウキが好きだと言ったから、市場で買っただけだ。コウキが足を向けた時の為に、用意しておいただけのことだ。
 しかしここ数カ月コウキはナギサシティに足を踏み入れてこない。決してデンジとコウキが喧嘩しただとか、そういうことではなく、単純に、コウキがナギサシティに足を向ける用事がないだけだった。デンジとコウキは、ジムリーダーとチャレンジャーだ。それ以上の関係はない。それ以上の感情も。
 デンジはコウキと最後に会った時を思い出した。その時は、ちょうど牛乳とコウキが鉢合わせして、コウキは喜んでその牛乳を空にした。コウキは星が瞬くように笑って「デンジさんは優しいですね」と言う。デンジは、そんなことねえよ、とコウキの短い髪をくしゃり、と撫でた。コウキは、楽しそうにデンジの大きな手を退かそうとする。デンジはどこか照れ臭い思いを掻き消そうと、少し力を込めてコウキの小さな反抗を遮った。
 コウキは次の日、朝早くにまた旅に出た。デンジはせめて、もぅ、ほんの少し引き留めたいと思った。しかしコウキがまた、星が落ちるように「行ってきます」と笑うものだから、デンジも笑って、控えめにでも手を振るしかなかった。
 行ってきます、と笑ったからには、きっと帰っては来るのだろう。デンジの元へ。
 そう考え、デンジはその日から牛乳を冷蔵庫に待機させていた。賞味期限が切れて、同じようにシンクに流しては、また牛乳を買い足した。
 なんとなく、コウキがはやくここへ帰ってくるように。ただ、なんとなくだ。
「あーぁ」
 デンジに食物を惜しむ気持はない。食べたい時に食べるし、食べたくないときは食べない。その排水溝に流れていく牛乳を見て嘆息を吐くわけは、自分が滑稽に思えて仕方がなかったからだ。なんとなく惨めな気がして、その牛乳が憎らしく思えただけだった。
 だんだんとはっきりしてくる思考も、やがては眠気に似た諦めに霞んでゆくだろう。デンジは溜息を吐いた。訳もなく、煩わしい。
 ぽつぽつと漏れる白濁の滴は、往生際が悪く、未だその滴をシンクに叩きつけた。ほんの僅かに漂う悪臭に顔の真ん中に皺が寄る。吐瀉物にも似た匂いがこの排水溝の奥に充満している。堪らずデンジは蛇口のノズルを一杯に回した。勢いよく吹きだした水は白い液体を排水溝の奥へ押し流してゆく。
 くさい、とデンジはその空のパックをシンクに放り投げた。かこん、かこんと空虚な音が一つ二つ鳴ったかと思うと、水に打たれた。
 匂い、が。
 堪らない、とデンジは顔を顰めた。もう何処から漂ってくるのか分からない部屋中に充満する吐瀉物の、いや牛乳の腐った匂いが。牛乳の、あの匂いが。
 ざーざー、と蛇口から流れる水ではその匂いを抑えきれない。排水溝の奥にたまった白を濁らせたそれがうごめいている。その様を想像して、デンジは背筋を、ぞ、とさせた。あり得るはずもない妄想だ。排水溝は詰ってもいないし牛乳は液体だ。もう下水を流れているに違いない。けれど、デンジの鼻に残る、腐食した牛乳の匂いが、堪らない。喉の奥に感じ始めて異物感をなかったことにして、デンジはゴミ箱となんら変わらないベッドにもぐりこんだ。期待が腐って濁っていく。冷たいシーツに苛立ちが増す、不愉快ばかりの部屋にどうしようもなく苛立って下唇に歯を立てた。
 期待ばかりが膨らんで感情に蛆が集るようだった。ざーざーと止め処ない水道の音も不愉快で、ついに耳を塞いだ。まっくらな視界で星が瞬くようにコウキの後ろ姿が浮かんだ。声を掛けようとしてもあまりの臭気にむかつきが喉を塞いだ。その内その後ろ姿もぼんやりとかすんでいく。だんだんと輪郭がぼやけていくコウキに、デンジの瞼の裏は真っ暗になった。










脳髄に蛆