ユウキ、と名乗った少年は、あどけない顔の割に鋭い目をしていた。しかし、トレーナーの資質を思わせるように、鋭い眼光は洞窟の暗がりでも良く光った。その光が、とても、印象に残ったのを覚えている。
 そう、トレーナーとして、彼の可能性に期待していた。それだけだ。それだけだった。
 ルネシティは、カイオーガとグラードンの闘争で軋みを上げる。滝に打たれる様な嵐に、僕の後に続きながら彼は眉を潜ませて耐えていた。けれど、それでもその瞳の光が、少しもくすんでしまわないことに、僕は不謹慎にも心を躍らせた。彼は確実に、前に会う頃よりも仲間を信頼し、強くなっていた。僕が彼に話しかける間も、彼はまっすぐに、意思の強い瞳で超古代ポケモンたちを見据える。
 その横顔が、ひどく、尊いものに思えて、僕は息を詰めた。
 経験したこともない感情が胸に宿った。感情は名前もつけられることもなく、そのまま僕の胸に根を張る。根を張ったそれは、静かに息をひそめて、ゆっくりと、僕の心に根をはり巡らせた。僕は動揺を彼に悟られぬようにふるまいながら、芽生えたそれに、見ないふりをした。

 彼は、強くなった。僕を負かすぐらいに。
 僕は彼に負けたことを悔しいと思った。それは間違いない。自分の手持ちのポケモンたちが地に伏していくのを見て、そう思わないトレーナーはいないだろう。その瞬間は、誰もが胸の中で、悔しさを押さえつけて、感情が鎮まるのをひたすらに待つ。
 しかし、僕が目を惹かれてしまったのは、倒れた友人ではなく、そして友人を倒した満身創痍のラグラージでもない。その奥で、鋭い眼光を光らせている、ユウキ君ばかりに、僕は目を、奪われた。息を詰めて、言葉を失った。悔しかった。それは本当だ。しかしそれ以上に、僕は、動揺した。言葉には出来なかった。出来ずに、僕は生唾と一緒にその動揺を胸に押し込んだ。
 その動揺は、あの日感じたものとよく似ていて、僕は彼を、美しいとすら思った。未成熟な、細い肩や、少し上気した頬、興奮にすこし息が乱れていて、その度に肩が小さく揺れていた。
 胸が詰まった。見開いた瞳は彼以外を見ようとしない。感情を、抑えるのに必死だった。
 はぁ、と溜まった息を落とし、僕はゆっくりと瞬きをした。瞼の裏の暗闇にすら、彼が張り付いて、僕はもう一度深い息をする。


 その日から、いくらかしないうちに、夢を見た。――――いやらしい夢を。
 輪郭のぼやけた世界に、ユウキ君がいて、僕は吸い寄せられるように彼に触れた。頬を触れて、首筋を撫でた。露出の少ない彼の服の、ジッパーに手を掛ける。ホウエンの強い日差しから隠れた肌は、白く、ほんの少し赤らんだそれに、気持ちが急いた。高い襟に隠れた首筋の、日焼けの縁を指でなぞる。ユウキ君はくすぐったそうに笑った。ころころの転がる含み笑いを、鼓膜が拾う。くすぐったさの笑い混じりに、僕の名前を呼んだ。感覚の全てが粟立った。下腹部が痛い程に疼いた。僕は不躾に彼の名前を繰り返した。背中を駆けあがった興奮が、熱い息を吐かせた。肉の薄い節々は、驚くほどに細く、赤らんだ肌が孕んだ熱がいやに生生しい。薄く開いた桃色の唇から、真っ赤な舌が覗いていた。肩も腕も、触れれば簡単に手のひらに収まる。肌に触れた矢先から硬い骨に触れた。少年の幼い体は、悲しい程無力で、彼はあっさりと。

 あっさり、と。


 目を覚まして、自己嫌悪に打ちひしがれた。ぐるぐると腹に渦巻く、嫌悪感に、吐き気がした。ひたすらに薄気味悪かった。
 僕は。
 動揺していた。自己嫌悪が渦巻く。ただ、ひたすらに動揺していた。夢の顛末が、たやすく思い出せた。彼の体温、くすくすと蠱惑的に笑う声、紅潮する白皙、骨の浮く関節。駆けあがる興奮と、疼きを隠さない下腹部。最悪の気分だった。ぐわんぐわんと頭蓋骨のなかで銅鑼が鳴る。
 あんなにも、美しい彼を。
 自分の体調は良く理解できた。寝床を汚すのは嫌だ、となけなしの理性で、僕はベッドから抜け出した。体を支え切れずに、千鳥足の足取りで体を運ぶ。
 夢から覚めきれない、体の感覚が、彼の熱を覚えている。
 洗面台が遠い。足取りが重い。体の半分を預けながら、壁を這う。しかしその間も僕の頭は夢に支配されていた。
 不躾な、欲を隠そうともしない僕の声。それに掻き消されながらも、僕の名前を、熱のこもった声で、呼ぶ。
 僕はとうとう膝から崩れ落ちて、床に倒れた。膝を床に突き、四つん這いになる。自己嫌悪は胸を蝕んで、食道と喉を焼きながら逆流した。胃は縮こまり、廊下にその内容物全てがさらけ出される。轢き潰された蛙の、うめき声にも似た声に、びちゃびちゃの吐瀉物が跳ねる音に重なる。元がどんな形か分からない、曖昧な色と輪郭をした、僕のなりそこないが見えた。この汚物が、自分自身に見えた。
 汚い。僕は彼に、あんな綺麗な子供に、自分の欲をぶつけるのか。そう考えると、胃はまた収縮し、黄色がかった液体を、さらに溢れさせる。
 口の中に吐瀉物のかけらがこびりついている。手は吐瀉物のぬめりで、体を支え切れない。ずちゃり、と粘っこい音を立てながら僕は吐瀉物に顔を突っ込んだ。酸味は鼻を蝕み更に嘔吐を繰り返させる。げぼ、げほ、咳払いにも似た音で嘔吐を繰り返した。ひゅぅ、ひゅぅ、大袈裟な呼吸が繰り返される。喉の奥に付着する吐瀉物のかけらが、不愉快だった。酸の匂いは噎せ返るように鼻の粘膜を焦がしてゆく。いくら呼吸を繰り返しても、酸素は体を拒絶する。息ができなかった。このまま、汚物に溺れて、死んでしまうのかと思うほどに。
 遠くで、ユウキ君がぼくを呼んだ気がした。えづく音にかき消されそうなそれが、もう一度僕の耳に届く。
「ダイゴさんっ!?」
 玄関に立っている彼が見えた。夢が現実を侵食し始めたのだと思った。彼は顔を青くして僕に駆け寄る。自力で立てない僕の顔色を覗いて、不安げに「どうしたんだよ」と手を伸ばしかけた。
 咄嗟に、彼の手をはじく。触らないで、と言葉に出来なかった。
 ユウキ君は驚きに目を見開いて、僕を見返す。何が起こったのか分からない、といった彼の顔をなんとか横目で覗く。
 吐瀉物に汚れた手で触れたせいで、彼のグローブが少し汚れた。僕に駆け寄って突いた膝小僧が、僕の吐瀉物で汚れていた。
 僕はひどい罪悪感に襲われる。こうして僕は、彼を汚すのだろうか。欲と汚物にまみれた手で、彼に触れようなんて考えたから。言葉が出ない、僕はまた力なく吐瀉物の海に溺れた。何度も何度もごめん、と繰り返した。
 ユウキ君の手が、僕の肩を撫でる。まるで子供をなだめるような手つきに、僕は生理的ではない涙を流した。










触らないで