ランスの家は、カントーの大都会にあった。摩天楼の様なビルばかりが立ち並ぶ通りの裏路地に入り、子供の肩幅ほどの狭い迷路を抜けた先にある、見るからに錆ついたボロアパートの二階にランスは住んでいた。
 最早ペンキが塗られた形跡すらない鉄板の階段は、歩くたびにぎしぎしと軋み、いつ底が抜けるのか分からない状態だ。トタンの屋根は端が捲れていて、ビル風に吹き飛びそうにトタン素材の裏側が揺れていた。
 ヒビキは階段の、錆でざらつく手すりにしっかりと掴まりながら、一段一段階段を上って行った。二階に足を踏み入れ、ほっと息を突き、一番奥のランスの部屋の扉を叩く。このアパートには呼び鈴がなかった。金属でもなく、煤けた木材のドアは渇いた音を返すが、中から声はしない。仕方なくドアノブを捻ると、建てつけの悪いドアはガタガタと音を立てて開いた。しかし中にランスの姿は見えない。
 ランスは外出時に鍵を掛けない。ヒビキはその不用意さに驚いたが、ランスは「コソ泥や空巣も、こんなボロ屋狙いませんよ」と悪びれない。しかしそれが事実なのだろう。こんなにも無防備だと言うのに、この部屋が荒らされたことは一度もない。腑に落ちないヒビキにランスは「あなたは餓鬼のくせに頭が固いですね」と鼻を鳴らした。
 ヒビキはまたか、と呆れて中に入る。乱雑に靴を脱ぎ棄てて、重い荷物を、柔らかな絨毯に投げる。ランスの住んでいる部屋は確かに、今時珍しい程のボロアパートだ。内装だって今は懐かしの土壁で、ヒビキがそれに触れるたびにボロボロと崩れる。しかしその部屋に無造作に置かれている家具や機械たちは、そのボロアパートには似つかわしくない高級品に見えた。床に敷かれている絨毯のふみ心地は、セキエイリーグの真っ赤な絨毯を思い出させるし、机に放置されているノートパソコンは発売直後で、テレビCMが引切り無しに流されている。
 つまりランスは貧乏でこの部屋に住んでいるわけではない。このアパートはビル影に隠れて、日当たりは悪いし、湿気も多い。ヒビキにはランスがこの家にこだわる理由がよくわからなかった。都会の、濁流の様な人ごみに疲れたヒビキは、厚く柔らかい絨毯に寝っ転がる。はぁー、とゆっくりと深呼吸を繰り返すと、湿った空気と、土壁の匂いがした。ランスの匂いはしない。あまりこの家では過ごさないのだろう。ランスの家にも関わらず、この部屋からランスの存在はほとんど感じられない。
 ヒビキははぁ、と溜息をひとつ吐いて、眼を閉じた。今日もランスがこの家に帰ってくるとは限らない。簡単な宿屋代わりにさせてもらっているのも事実だが、生活感が感じられないこの部屋はなんとなく落ち着かなかった。日が傾く前だと言うのに、日が落ちたように部屋は暗い。寝転がってしまえば、電灯を付けるのも億劫で、ヒビキはそのまま寝息を立て始めた。


 がちゃ、がちゃと、扉が立てる音に、ヒビキの意識は緩やかに浮上した。はっきりしない頭のまま、静かに起き上がる。肌はじんわりと冷えていて、この家の居心地の悪さがまとわりつくみたいだとヒビキはぼんやりと考えた。ヒビキが開けた時みたいに、ガタガタと建てつけの悪さを露呈しながら、ドアが開く。ランスが寝ぼけ眼のヒビキを見る。
「妙なネズミが住み着いてしまいましたねぇ」
 嫌みなのか、独り言なのか、判断しがたい。ヒビキはそれを嫌みととって、きっ、と目を吊り上げた。ランスは家に上がり、すぐにある電灯のスイッチを入れた。右手に下げられたビニール袋をテーブルに置くと、真黒いコートを脱いだ。当然の動作だが、なんだか所帯じみたその動きが似あわない。
「相変わらずの不用心だよな」
「そうでもないですよ、子ネズミが忍び込むぐらいです」
 皮肉っぽいランスの言葉に、ヒビキも苛立つ。ランスはどこ吹く風と言った調子で、ヒビキを跨いで、後ろに掛けられていたハンガーにコートを吊るした。何か言い返そうと口を開いたが、ランスから臭う鉄臭さに、ヒビキは黙り込んでしまった。掻いた胡坐に俯いてしまったヒビキを、ランスが見下ろし、ふんっ、と鼻を鳴らした。
「今更、」
 長身の体を屈め、俯いたヒビキの顎を無理やり引き、眼を合わせる。ランスの体は、強靭というわけではない。むしろ細いぐらいだろう。しかしその細身のランスの力にも逆らえないヒビキは、やはり子供だった。
「あなたをどうこうしてやろうとは思いませんが、あなたの身の安全は保障しているわけじゃないんですよ」
 少しは警戒なさい。ランスは言った。真黒いコートの下は、また真黒なシャツで、どこから血の匂いがするのか、ヒビキは分からなかった。そういえば、この男はロケット団の中でも、女に人気だった。と、ヒビキはふと思い出した。顔が綺麗だから、ヒビキを見下ろす表情にも不思議と迫力がある。
「悪ぶりたいだけなら、身売りでもすれば良いでしょう。自分で客が見つけられないなら、私が買ってやりましょうか?」
 そこまでランスが言いきってから、ヒビキはやっとランスの手を払う。
「部屋に入れたくないなら、鍵でも掛ければいいだろ」
「なぜあなたの為に私の習慣を変えなければいけないんですか」
「俺のためじゃなくて、あんたの為だろ」
 きっ、とその青とも、緑ともつかない目を睨み返すと、ランスは舌打ちと共に小さく、可愛げのない餓鬼だ、と呟いた。ヒビキも心の中でだけ、大人げない大人だと言い返す。ランスはもう一度ふんっ、と鼻を鳴らして、風呂場に向かった。申し訳程度の遮影カーテンを力任せにひっぱる。踝の下だけがほんの少し覗きこめた。ランスが服を脱ぐ衣擦れの音も、良く聞こえた。
「あんたさぁ、」
 当然、ランスには届くはずの声だ。けれどヒビキは独り言にも似た気持ちでそれを声に出した。
「俺が初めてここに来た時、鍵、閉めてただろ」
 衣擦れの音がぴたりと止んで、ヒビキもそれ以上は喋らなかった。こつ、こつ、こつ、と時計の秒針の音が数回響いた後に、ランスが「自意識過剰も良いところですね」と返事をする。衣擦れが再開され、ランスが浴場に入る。その内シャワーの音が鳴りだして、ヒビキは膝を抱えて、頭を擦りつける。ビニール袋から突きだす、二本の割り箸を、どうしても見ていられなかった。










灯台もと暗し