チャンピオンはその地方の全てのトレーナーの上に立つ存在だ。四天王を統率する人間として、ワタルは当然、チャンピオンとは毅然とした人物であるべきだと考えた。全てのトレーナーの憧れになる人物として、威厳がなければ務まらない役職だと思っていた。チャンピオンの資格は、純然たるトレーナーとしての強さだ。何よりもまず、トレーナーとして強くなければならない。しかし強くある為には、力だけでは足りない。ポケモンへの愛情、仲間への信頼、厳しく自分を律する精神。頂点に立つという覚悟。力への飽くなき探求心。全てが必要である。しかしチャンピオンになるほどの強者ならば、言わずともそれぐらいは持ち合わせているだろう。ワタルはそうも信じていた。
 が、実際にチャンピオンになった少年は、レッドはどうだろう。
 バトルに向かうレッドの気迫は、子供とは思えない程のものだ。グリーンと繰り広げたチャンピオン戦は、セキエイの頂上で行われるバトルとして相応しいものだった。ワタルはレッドに負けたのだ。同じくして、レッドはワタルを負かしたグリーンに勝利したのだ。変えようのない事実だ。ワタルも、それを認めていないわけではない。
 ただ、ただし、レッドのチャンピオンとしての自覚を、ワタルはどうしても認められなかった。
 毎日だらだら寝て過ごしてばかりで、たまに起きたかと思うと、手持ちのポケモンと遊んでいるばかりだ。努力が見られない。自分を律する気概がない。チャンピオンとして自覚がない。ワタルの思っていたチャンピオン像には程遠かった。第一子供としての可愛げもない。生意気ならまだしも、無口で、無表情で、覇気がない。
 これにはさすがのワタルも苛立った。それを抑えようと一時は努力したものの、それも耐えきれず態度に出てしまう。しかし、レッドはそれに怯えたり、気をもむわけでもなく、ただ興味のなさそうな目で、ワタルを一瞥しただけだった。
「(なんて可愛げのない餓鬼だ)」
 ワタルのレッドへの印象は、何よりもまずその一言に尽きた。子供はもっと愛らしいものだと思っていたが、それはレッドの出現でまったく塗り替えられた。今ワタルが嫌いなものを上げるとするならば、真っ先に「生意気な糞ガキだ!!」と怒鳴るだろう。
 それぐらいには、ワタルはレッドの存在が認められなかった。
 だから、レッドが向かいの廊下を歩いているのを発見した時、ワタルが思ったのはその珍しさよりも、ぐえ、と言葉にならない呻きだった。ぎゅ、と反射的なしかめっ面をすぐに元に戻す。いくら気に入らないとしても、たかが十一歳の子供相手に今の行動はあまりにも大人げない。レッドの無感動な目と視線が絡み合った。白々しくも、ワタルは極力親しげに「珍しいな」と声を掛けた。しかめっ面を見られたかどうかは、無表情のレッドからはうかがい知れない。そういうところが、尚も気に入らなかった。
「散歩」
 つくづく単語でしか言葉を発しない奴だ。会話をしようとする努力がまるで見られない。
「そうか、気をつけて」
 出来る得る限りの笑顔を装って、レッドの隣を通り過ぎる。ワタルも、思っていた以上にせせこましい自分の度量に少し落ち込んだ。その広い肩幅が少し丸くなっているのに気付かず、白々しい上にわざとらしいその仕草に、レッドも無表情も何か言いたげにしていた。
「ワタル」
 レッドに呼び止められ、振り返る。レッドは相変わらず無表情で、何を考えているのかワタルには良く分からなかった。
「暇?」



 ずずん。くぐもった音を立てて、カイリューの巨躯が倒れた。まだ余力のあるピカチュウが、電気袋からパリパリと閃光を光らせる。ワタルは、悔しさを押し込めて、大きく息を吸った。フィールドを挟んだ向こう側に佇むレッドは、涼しい顔で、バトル中にずれた帽子の位置を直していた。
 胸に沸く苛立ちを抑え込むのに、一呼吸置いて、ワタルは吸いこんだ息を吐き出した。カイリューをモンスターボールに戻すと、ピカチュウは尻尾をひと振りしてレッドの元へ駆け戻って行った。レッドが差し出した腕から、肩まで昇って、赤い頬をレッドに擦りつける。その姿だけならペットと変わりないが、その真の姿を知る者はあのピカチューを黄色の悪魔だと呼んだ。ワタルもその通りだと思っている。
 ああしかし、可愛げがあるだけ、飼い主よりはましだろう、とも思っている。
 レッドは今のバトルに何も感じなかったとでも言うように、ピカチューを撫でた。食堂で、ポケモンフーズを食べていたピカチューを撫でるのと同じように。
 ワタルはもう一度、今度は瞳を閉じレッドを視界に入れないように、深く呼吸を繰り返した。
「ぅわっ」
 目を開けたとたん、眼の前に移動していたレッドにワタルは思わず悲鳴を上げた。レッドは少し不思議そうに首を傾げたが、大して気にもしていない様子で、抑揚のない声で「ありがとう」と礼を口にする。
「修業、付き合ってくれて」
「……あ、あぁ」
 ワタルは少し動揺を続ける心臓を気にしながら、レッドが礼を言ったことに少し驚いた。思い返すと、レッドから直接頼みを聞いたのは、初めてだった。
「楽しかった」
 胸にも届かないぐらいの位置から、ワタルを見上げるレッドの顔は、珍しく、少し笑っているようにも見えた。ワタルは少し、おや、と思った。こんな顔も出来るのか。年相応な、少年らしい顔が。
「また、」
 まじまじとその顔を見下ろしていたワタルだが、それもレッドが深く帽子のつばを下ろしたので、レッドの顔は見えなくなってしまった。
「付き合ってくれたら、」
 レッドの抑揚のない声が、言葉を選びながら紡がれる。
「うれしい」
 表情は見えないが、なんだか照れているようにもじもじと、レッドはよれよれの自分の服の裾を掴む。
「ああ、」
 なんだか拍子抜けをくらったような気持ちで、ワタルはレッド見下ろしていた。こんなにも少年らしい表情や、仕草も出来るのか。それも、こんなはにかみ屋な仕草を。
「いいさ。修業ならいくらでも、付き合ってあげよう」
 また、聞こえるか聞こえないかぐらいの声で、レッドがありがとうと繰り返した。そしてすぐに「それじゃ」と素っ気なく踵を返し、訓練場を出ようとドアに向かう。その拍子に、今度はしっかりと、ワタルの目はレッドの口元がにっこりと笑っているのを捉えた。
 なんだ、それなりに、可愛らしい子供じゃないか、とワタルはその後ろ姿に茫然と思った。今までのこ生意気な態度は一体何だったのだろうか、とゆらゆら揺れるピカチュウのしっぽを目で追ってしまう。
「修業なら、グリーンに付き合ってもらえばいいじゃないか」
 訓練場から出ようとするレッドに、ふと思いついた疑問を投げる。レッドはワタルを振り返り、ドアに手を掛けたまま何かを思うように視線を下げた。
「無理」
 相変わらず無感動な声色なのに、レッドの声は不思議とはっきりワタルの耳に届いた。どうして、とワタルが聞き返す前に、レッドはまた無感情な声で続ける。
「……多分、嫌われたから」
 ワタルはグリーンを思い出した。祖父に窘められた彼の、レッドを睨んだ彼の目を。
 言葉を見つけられないワタルに、レッドは少し表情を和らげ視線を戻した。その無感動な声にも、ほんの少し安堵が宿る。
「ワタルにも、嫌われてると思ってた」
 それだけ言って、レッドは訓練場の扉を閉めた。今度こそワタルは、頭を抱え、自分の大人げなさに悶絶するしかなかった。










愛すべき朴念仁