エンジュの町は、古い街並みを残した歴史ある町だ。碁盤の目状に整備された街並みは、古ぼけて煤けた木材の建築物が並び、渋みの強いその色の最中を、眼に焼きつく朱色と、街に仄かに溶け込む臙脂の色が、華やかに彩る。
どこからかともなく香が煙るこの街を、ヒビキは気に入っていた。しかし、好ましく思うその反面、ヒビキがエンジュへ足を踏み入れたことは長い旅の中で実のところ、数えるほどしかない。 街も、そこへ住む人々もヒビキはとても気に入っていた。しかしそれ以上にどうしても、マツバが、この街のジムリーダーがどうしても、好きになれないのだ。そう考えて、ヒビキは頭を振る。自分が嫌っているのではない。マツバこそが、自分を嫌って―――憎んですらいるのだ。 エンジュは、コガネ程ではないと言え、広い町だ。ましてマツバはジムリーダーとして立派に務めを果たしている。そうそう会うはずもないのに、どうしてか、ヒビキがエンジュへ足を踏み入れると、図ったかのように、マツバと鉢合わせた。 マツバはヒビキを見つけると、口の端を引いて、目を細める。紫色の、匂い玉のような目玉は、いつだって底のない井戸を見るようで、背筋が震えた。街の女性たちの黄色い声を浴びる端正の顔つきは、いつだって穏やかで人の良さそうな微笑みを張り付けているのに、何処か妖艶さを漂わせる垂れ目が本当に笑うところを、ヒビキは一度だって見たことが無かった。 ヒビキの緊張を感じ取り、かつり、とモンスターボールが揺れる。その小さなボールの中には、マツバがその人生の大半を費やし、とうとう掴み損ねたエンジュの伝説、ホウオウが羽を休めていた。ヒビキはその無機な表面をなぞり、マツバの言うことを思い返した。 「あれほど修業を、積んだのに!!」 ヒビキがマツバの激情を感じ取ったのは、後にも先にもこれっきりだった。それ以来、ヒビキがマツバに感じるものは、肌をねぶる様な、肌を粟立たせるような視線だけ。 底の知れぬマツバが、ヒビキには恐ろしかったのだ。彼の夢を奪ってしまったと、後ろめたさを感じていることもあったのかもしれない。それにしても、光を持たないそのうす紫が、底のない、ただただ深いばかりの穴っぽこにあるマツバの真意が、ヒビキに恐怖を感じさせる。 なんにせよ、ヒビキはマツバを嫌ってこそいないが、彼に心底怖気づいていた。 冬が去り、温かな風が吹きこみ始めたエンジュに足を踏み入れた時、ヒビキはその顔色を変えた美しさに目を奪われるよりも、マツバに出会わないことを一心に祈るばかりだった。 今日の宿を求め、ポケモンセンターに向かうヒビキは、涼しげな風が吹く日陰を、空気を焼く陽に当たらぬように歩く。俯きがちに歩くヒビキに、道行く人は目にもくれない。横目でマツバの影を雑踏の合間に探しながら、ヒビキは、ほっ、と溜息を吐いた。 と、その瞬間。 ヒビキは行き違う通行人の一人と正面衝突してしまった。ゆっくりした足取りのおかげで、額を相手の胸に小突かれただけだった。ヒビキは慌てて、その藍色をした和装の男性から距離を取る。そしてすぐに謝ろうと口を開いたその瞬間、ひ、と失敗した呼吸がヒビキの喉を塞いだ。和装の男はにっこりと、不気味なほどの笑顔をたたえて、「おや、久しぶりだねぇ、ヒビキ君」と、その光の灯らない匂い玉を細めるのだった。 もう暑さに追われる季節だと言うのに、マツバの首元には相変わらず、裾が血染めのように赤いマフラーがあった。季節感の感じられないその姿に、ヒビキは違和感を感じながら、マツバに手を引かれる。柔らかく、しっかりとヒビキの手首を握るマツバの手は、ヒビキがその手を振り払う選択肢を暗黙のうちに殺した。 「前に来た時は、秋頃だったかな。本当に久しぶりだねぇ」 ヒビキの手を緩く引きながら、マツバが笑う。ヒビキはマツバから目を逸らし、石畳の沿道に視線を沿わせながら相槌を繰り返していた。マツバはヒビキを振り返ろうともしない。 「舞妓さんたちも寂しがっていたよ。僕が、君をかくまってるんじゃないかと疑われたぐらいでね、今度暇があれば顔を出しに行ってやってくれないかな」 「……はい」 「寺のお坊たちも、君の話ばかりしているよ。チャンピオンになった君は、一体どんな子供なのかとね」 「君がこんなにちいさな子供だと知ったら、皆おどろくだろうなぁ」 「けれど、力量に年齢なんて関係ないのも事実だ、古い人たちは、頭が固くっていけないね」 「それにしてもとても、本当にあったかくなったねぇ、もう凍りついた井戸も溶けたかな。このマフラーも、失敗してしまったね。熱くてたまらないな」 そう言う割には、マツバの顔には汗どころか赤味すらない。ヒビキはマツバを訝しげに見上げるが、マツバは不躾に、ヒビキの手を引き続ける。足取りは、どこか行き先が決まっているようで、迷いない。石畳の間に、雑草が生え始めた。人の手が加えられないそれに、自分たちが街外れまで歩いてきたことを、ヒビキはやっと自覚した。ヒビキが戸惑いを覚え始めても、マツバは歩調を緩めたりはせず、意味のない世間話を繰り返すばかりだ。 やがて、竹の群生地までたどり着くと、マツバは竹の浸食を制するように立てられた、古びた井戸の側で立ち止まり、ヒビキの腕をやっと解放した。マツバの拘束から抜け出したヒビキは、さっ、とマツバとの距離を井戸を挟むように、二三歩広げる。マツバはそれでもヒビキに深く微笑みかけた。 「ねぇ、ヒビキ君」 ヒビキは、マツバの底知れぬ笑みに引け腰になりながらも、その暗い目を見返した。 「賢い君は、もう分かっていると思うけれど、僕は君が、妬ましくてならない」 「……はい」 「でも、君には僕の心持なんて、かけらも分かりやしないだろ。僕は何より、それがそねましくてならないんだ」 「……君は、君の存在こそが、何よりも残酷だということを分かっていないだろう。知りもしないだろう。考えたことも、思いついたことも、ありやしないだろう」 「僕らにとっちゃぁね、君そのものが、あることが罪なんだよ。妬ましくて、そねましくて、脳みそが、焼き切れそうなのさ」 マツバの笑みは凍りついたように動かない。ヒビキはまたそれが空恐ろしくて、手に触れた井戸の縁に力を込めた。マツバはふと、その糸のように細めた目を薄く開いたかと思うと、それをヒビキが縁を掴んだ井戸にやった。 木材が腐ってしまっている、苔生して、打ち捨てられた井戸だ。 マツバが、それを見ろ、と暗にヒビキに命令した。ヒビキは、マツバに怯みながらも、その視線に沿い、井戸を覗きこむ。 「ひゃ、あ」 ヒビキは凍りついた喉から、悲鳴をあげた。悲鳴にもなりきらない、小さな、力の抜けた悲鳴だ。足を縺れ、絡ませながら、尻餅を突き、尚も力の入らない体を引きずり、その井戸から離れた。一歩でも、二歩でも、一寸でも、その井戸から離れようとヒビキはもたつく足に力を込めた。 「君は、彼を、覚えていやしないだろう。こんな哀れな男を」 井戸の底、木材が腐食し、割れて、挿しこんだ明かりが井戸の底を照らす。水面は光を反射し、緑がかった鏡面を作った。その、鏡の、向こうに。 「君が、以前エンジュを訪れた時に、負かしたトレーナーさ」 その存在すら、覚えていないだろう。とマツバは笑った。 男が、ヒビキを睨みあげていた。恨めしげに、その井戸の冷たさに、腐り落ちることも許されず、ただその姿を、鏡の向こうに漂わせた、男が。 死体、が。 ひ、とヒビキは喉を掻く。 「君は、自分の身にある業など、思いやしなかったろう」 「君は、そう、あるだけで、僕らみたいな哀れな者の、なけなしの希望を喰らって、」 「残酷だと、思わないかい。不条理だと、感じないかい」 「僕らは君みたいのに踏み荒らされて、口散らかされ、」 「そうあることすら、知られず、認められず、許されないなんて」 ヒビキは、自分の体が、どこかに落ちていくのを感じた。空と、むき出しの土が反転し、ぐちゃぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、ぐずぐずと腐り落ちていく。心臓が内側から裂けた。呼吸が出来ずに、ヒビキは喘ぐ。 マツバは、そんなヒビキを見下ろしながら、うっそりと微笑んだ。 「いや、いいよ。いいんだ。君には、僕らの気持ちなんて、わかりゃしないんだから」 そう言って、ヒビキの首筋を撫でたマツバの手は、病的に青白く、雪解けを知らない井戸の底のように、じっとりと冷たい。 「でも、僕らは君の滑稽なほどの強さが、無垢さが、愛おしくって、憎らしくって、堪らないんだから」 「ご、ごめ、んな、さ」 許して、と言葉にし損ねたヒビキの喉が引き攣る。 「だめ、許すものか」 一生恨んでやる。からからと、あけすけに明るい声で、マツバはヒビキの首に手を掛けた。 |
敗者の檻