カントーの都会は、いつもゴミのような人だかりで溢れかえっている。濁流のような人ごみを行き交う人たちは、誰も皆おんなじような顔をしていて、いつも既視感を感じていた。記憶の手綱をぐるぐると手繰り寄せても、やっぱり思い当たる節はない。すっきりしない、もやもやとした感覚が胸に溜まる。数え切れそうにない人々の呼吸、自動車の排気ガス。隣に迫る人の圧迫感。感じる息苦しさはきっと思い過ごしではないだろう。ヒビキは、あまり都会が好きではなかった。
 大人の歩みは、躊躇なくヒビキを追い越してゆく。何をそんなに急いで行くのだろう、とぼんやりと考えながら、空を覆う様なビルが立ち並ぶ通りを、ヒビキは人影を掻い潜りながら歩いた。夕暮れの光を照り返す鏡のようなビルに、ちかちかと眼を焼かれてヒビキは眼を細める。誰にも会ったことがないはずなのに、行き交う人々は皆、どこかで会ったかの様な既視感ばかりだ。もしかしたら、どこかで会って、そのまま気付いていないのかもしれない。
 でもそれも、どうでもいいことだ。こんなに人が溢れかえっているのだから、そういうこともあるだろう。ヒビキはそんなことに寂しさを覚えるようなロマンチストではないから、今の興味と言えば、すれ違う灰色の顔をした大人たちの行方よりも、通りを挟んだ向こうから歩いてくる、鮮やかな青碧の色の髪をした男のことだ。真黒なシャツに真黒なズボン。日差し避けのためかその襟を立てて目深に帽子を被っている。全身黒尽くめのせいで、その不健康そうな白い肌と耳の横からほんの少しはみ出す青碧色が、灰色の人込みを背景に良く映える。あの男こそが、ヒビキがこの街にやってきた目的だ。ヒビキと男の距離が、都会の足早に縮まっていく。
「この熱いのに、なんでそんな暑苦しいカッコ?」
「貴方のリクエストですよ。その年で痴呆症ですか、嘆かわしい限りですね」
「それにしたって、見てて暑苦しいんだけど……って、ちょっと!」
 ヒビキがそう言うのも聞かず、ランスは強引にヒビキの手首を掴んで人ごみにまぎれていく。大人と子供の差があるのに、ランスは足早だ。無遠慮な力に手首がひりひりと痛んだ。
「手、痛いよ」
「それぐらい我慢しなさい。はぐれますよ」
 ランスはそう言うけれど、ヒビキはきっとこの人ゴミでもランスを見失わないだろう。その鮮やかな青碧を、この灰色の中で見失うはずがない。しかしヒビキはそれを口にせず、ランスの青碧が眩しくて、真黒なズボンの裾が揺れるのばかり眼で追った。
 だんだんと行き違う人が少なくなり始めると、ランスもやっと歩調を緩める。ヒビキもそれに合わせてランスの隣に並ぶ。ずっと俯いていたせいか、ここが町のどのあたりなのか分からない。ヒビキは都会にはあまり足を運ばないから、ビルの森のような町に公園があることなんて少しも知らなかった。日はもう殆ど沈みかけていて、夕暮れの残り香が残る西の空を覗けば空はもう夜の帳が引いている。人の気配のない公園には、白い電灯がともっているが、それがかえってこの公園を寂しくさせているような気がした。ランスは、ヒビキの手を引いたまま公園の奥に進んでいく。夜の帳に落ちる影が、公園全体を覆っているようで、電灯の甲斐も虚しく公園は薄暗い。
 作り物の林はやはり不自然で、人どころか、生き物の気配がしなかった。これが本物の林なら、あたりは虫ポケモンや起き出した夜行性のポケモンの気配で溢れかえっている。ランスはそれを見計ってか、ヒビキを木の幹に押しやった。それもまた強引な力で、背骨が硬い幹にぶつかり、ヒビキは微かにうめき声を上げた。ランスの顔を睨み上げたが、肩を掴むランスの腕が弱まることはなく、暗がりではランスがどんな顔をしているのかも良く分からなかった。
 真黒なシャツ、真黒なズボン。白い肌がぼんやりと暗がりに溶け込んでいる。その中で、青碧の髪は、初めて会った時と一緒で、ランスの輪郭を縁取っていた。ランスの影が、ゆっくりと迫る。普段は苛立つほどに無遠慮なのに、こういう時だけ、ランスは恐ろしく繊細な動きをする。壊れ物に触るように、恐る恐る、ぼんやりとした影がヒビキを覆う。わっ、と熱が体を駆けあがる。暗がりに心底安心した。真夏の風は夜でも生暖かい。けれど、風は木々の間を通り抜けて、二人の、じっとりと汗のにじむ肌を冷やしていった。
「……犯罪者」
「今更」
 ランスは少し皮肉っぽく笑ったみたいだった。電灯の光も届かなくて、それも声の感じで察するしかできない。
「私は君と出会う前から、犯罪者ですよ」
 視界も明瞭じゃない暗がりに、黒尽くめのランスは溶け込んでいる。ヤドンの井戸で、初めて会った時をどうしてか今更思い出した。洞窟をぼんやりと照らす安っぽいランプの明かりが、ランスの白い肌と青碧の髪を浮かび上がらせていた。あの時は、もっと、鋭い眼をしていた。戸惑うようにヒビキの様子を窺ったり、ヒビキに触れるのをためらったりするような男ではなかったはずだ。けれどそれは、多分ヒビキも一緒だった。
「ねぇ、顔、見えないんだけど」
「見えなくたっていいでしょう。そっちの方が都合がいい」
「なんで」
 ヒビキの肩を抑えつけていた腕が弱まり、ヒビキの肩の輪郭をなぞりながら、ランスの手はヒビキの腕を緩く掴んだ。ランスの腕が、ヒビキの両腕を捕まえると、ランスは囁くようにヒビキの耳元へ口を寄せる。
「見られると素直になれないでしょう?」
 君は。ランスが悪戯っぽく笑う。
 真っ赤に染まった顔も、耳も、首も、本当は筒抜けなのかもしれない。ぎゅ、ヒビキが拳を握りしめると、ランスはまたくすりと笑った。素直になれないのは、お互い様だ。そう言うとこの大人はまた怒るだろうから、ヒビキはお返しにランスの脛を蹴飛ばした。
 夏の空気は生ぬるく、じっとりと肌にまとわりつく。けれど、二人の吐息に溶かしてくれるから、きっと自分たちにはこっちの方が都合がいい。肌に刺さる冬の寒さよりも、目蓋を切り裂く真昼の明るさよりも。きっとこっちの方が、触れ合う吐息も誤魔化せるから。










暗幕の裏にて