近頃、夢を見る。酷く下卑た、夢を見る。
 アスファルトを突き破った、今にも大きな花弁をくゆらせようとする野花を、いたずらに引きちぎるような、そんなみっともない、夢を、見る。
 手の中のつぼみは小さく、緩く掌に閉じ込めるだけでは隙間から零れてしまいそうだった。俺は引きちぎった野花からわざわざ蕾をむしり取り、それを親指と人差し指の僅かな力で押しつぶした。
 指の間でひしゃげ、細切れに土に落ちる花弁を踏みにじった。
 口の端が、薄くつり上がるのに気付いたけれど、靴べらで薄汚れていく桃色の花弁が小気味良く感じて、歪な笑い方を抑えるとという考えには成らなかった。
 下卑た夢を見る、俺は下卑た大人だ。

 手の中の温度は人肌よりもやや温かい。ただの人ではなく子供の体温だった。まろみをおびた手は柔らかく、少し力を込めただけで簡単に骨まで砕けてしまいそうだ。握りこまれた手の先で、コウキは鼻歌を歌いながら市場を進んだ。俺よりも小さな歩幅で人込みを掻い潜り、きょろきょろと忙しそうに視線を泳がせ、小さな手は急ぐように俺の手を控え目に引っ張る。横を歩くコウキがぱっと店の一つに飛び着けば、ゆるく触れ合っていただけの体温はすんなりと手を離れた。小さな体は人混みに掻き消えてしまいそうだが、不思議としっかりとした輪郭で人混みから浮かび上がる。白い肌に、赤いマフラーが良く映える。頬は淡く桃色に染まっている。コウキの小さな背中を二、三秒眺め、コウキの背中に立つ。コウキは俺なんていないように手の中の商品に夢中だ。その手元を覗きこむと、真新しいシールを吟味しているようで、あれもこれも、と手にとっては次にと手を伸ばす。
 やがてコウキも商品を二つに絞ったらしく、二つのシールを手にとって、どちらを取るか見比べている。シールに興味がない俺は、この二つのシールにどんな違いがあるのか分からない。そもそもシールの必要性に疑問を感じるが、女子供には、モンスターボールを飾り立てるこのシールは大人気なのだ。コウキもこんなに夢中になっている。
「デンジさんっ」
 コウキの手元をしげしげと覗きこんでいる俺に、コウキが突然振り返る。とっくに存在を忘れられていると思っていた俺は少したじろいだ。
「どっちがいいと思いますか?」
 ずい、と前に押し出される二つのシール。しかし俺にはまったくどちらも同じに見えてしまう。昔から興味のないことは視界にすら入らない性分だ。
「……コウキはどっちがいいと思うんだ?」
「どっちかに決められないんです……デンジさんに決めてもらおうと思って」
 期待を込めた視線が下から送られる。どちらかといわれても、どちらのシールも同じものに見えてしまう俺に、どちらがいいかなんて判別は出来ない。
「どっちも買ったらいいじゃないか」
「一日一枚って、決めてるんです!」
 旅には何かと物入りだ。コウキは子供ながらに、賢く倹約しているらしい。自発的にそう考えられる子供は、俺よりよほど立派に見えた。素直に、えらいな、と呟いてもコウキはどこ吹く風で、俺が目の前の二択の、どちらかを選ぶかに必死だ。
 こういう二択は、既にどちらかに決まっているものだと聞く。それを外せば落胆の声を上げられる。コウキにはそんな心配も無用かもしれないが、落胆されるのも癪だ。何がいいのか分からないと暴露して、落胆させてしまうのも心苦しい。
 俺は徐にその二つを手にとって、眼の前の店員に差し出す。
「デンジさん?」
 店員がその値段を答える。二つでたったの150円だ。財布を取り出すまでもなく、ポケットに転がっていた小銭を渡す。店員はにこやかにシールを差し出し、俺はそれをそのままコウキに流す。
「ほら」
「……えっ 駄目ですよそんなっ」
「いいって、代わりにこれ持てよ」
 俺が一緒に片手の買い物袋を差し出すと、コウキは少し顔を赤らめ、嬉しそうに笑い、それを受け取る。中には、今日の夕食に買い出したものが入っている。そう言えばこれも先程、自分が持つというコウキの申し出を断り、自分で無理やり持ったものだった。予定調和だ。ちょうどいい。コウキはシールを丁寧に鞄の中に仕舞い込み、空いた手で、俺の手を握りなおした。もう片方の手は、コウキに渡したものよりも重たいビニール袋がぶら下がっている。コウキがこっちを持つなんて言い出さなくてよかった。
 改めて手の中に収まった白い手はすべらかで、旅をしていても子供の柔らかさがありありと残っていた。賢いが、幼い子供の手だ。
 コウキは俺を見上げて「ありがとうございます」と無邪気に笑う。繋いだ手にも少しだけ力がこもった。俺はそれに眼を細めて答えて、込められた力と同じくらいに指先に力を込めた。脳裏にはひしゃげた蕾が浮かぶ。それをまた押し隠すように、俺はコウキの手を引いて市場を抜けた。少し手に力を込め、足を踏み出すだけで、コウキは慌ただしく足を進めた。子供の歩幅はとても小さく、俺が一歩踏み出すたびにコウキは二歩踏み出していた。少し慌てて俺の歩幅に合わせようと小走りにコウキに、俺は酷く後悔する。ごめん、と口を開きかけ、結局噤んでしまった。形に成らなかった言葉は、心臓の壁をひっそりと腐らせてゆく。罪悪感が、腐り始めた心臓の内壁をぐじゅぐじゅとかき混ぜる。堪らずにコウキから目を逸らすが、手の中の感覚はありありとそのあどけない気配を俺に感じさせた。
 日も落ちるのが早くなったな、と既に薄暗がりが頭上まで伸びているのを見上げ、コウキの手を引く。時間的には変わらないと言うのに、日がないだけで随分と遅い時間に感じた。早く帰ろうと、裏道を駆使し最短距離の帰路を選んだ。裏道は日が照っている時間でも薄暗く、何処か陰気な雰囲気を漂わせていて、当然のごとく治安も悪い。不良がどこからともなく現れ、道端に座り込んで下品に笑っている。普段なら通らない。ましてやこんな幼い子供を連れて歩く道ではないだろう。自分は平気だが、コウキは恐ろしくて堪らないはずだ。
 しかし、ちらと盗み見たコウキは特に怯えた様子もなく、安っぽいネオンの光を目で追いながら俺に手を引かれている。ガラリと変わった空気も感じ取っていないのか、それとも警戒心がないのか、この空気を怪しむぐらいはすべきだろうに、コウキはなんの疑いもない様子で俺に手を引かれている。コウキはまだ子供だ。この場に潜む危険も想像もつかないのだろう。毒々しい色を放つネオンが、どんな碌でなしを誘っているのかも分かっていないのかもしれない。
 はぁ、と溜息が零れる。それには目聡く気付いたコウキが、俺を見上げる。純朴そうな顔には、微塵の疑惑も宿っていない。あまりに無垢だ。
「……君は、大丈夫なのか?」
「何がですか?」
 裏通りを抜け、コウキが見知った風景の通りに差し掛かる。コウキは、俺の質問の意図も理解していないようで、俺は余計に不安になった。
「旅は、いつだって安全な訳じゃないだろう? そんな風に人を信用してたら、いつか危ない目にあうぞ。さっきの通りだって、子供だけの時は近寄るな。……まぁ、君の実力なら、大丈夫だろうが……」
「あはは、旅に出てから……ギンガ団にも会ったし、……悪い人だっているのはちゃんと分かってますよ」
 だから大丈夫です。といってコウキは俺に笑い返す。俺はその笑顔に何故か納得できず、刺を含ませた言葉が口を滑る。
「でも俺があの道を通ろうとした時、何も警戒しなかった。見るからに、危険だろ。もっとちゃんと、人を疑うことを覚えろ」
 思っていたよりも冷静な、しかし自分でも驚くほどに冷たい口調だ。原因の分からない苛立ちをコウキにぶつけてしまった自己嫌悪が、心臓の腐食した部分をガリガリと削った。
 しかしコウキは俺の言葉に傷つくこともなく。あどけなく小首を傾げて、人懐っこい微笑みで答える。道端に咲く野鼻が風にゆれるように、素朴で子供らしい微笑みだった。
「だって今は、デンジさんが居たじゃないですか。デンジさんと一緒なら、絶対大丈夫でしょ?」
 こどもっぽい仕草と理由で、簡単に信じていると、言ってしまえるコウキは、やはりまだ、子供だった。本当に人を疑う術も知らない、幼い子供だった。頭から、みるみると脱力していく。肩すかしと期待はずれがもみくちゃになって、俺の一人相撲を笑っているような気がした。
 期待。期待とはなんだ。勝手に出た言葉に思わず失笑した。コウキにはこの笑いが俺自身を嘲るものだとも気付かず、俺が笑みを零したのに、また花が揺れるように可愛らしく笑った。
「はやく、帰るか。腹、減ったしな」
「はいっ」
 コウキはまた、手を繋ぎ返し、その手に力を込めた。
 俺は下卑た夢を見る。野花を踏みにじるような、手の中で蕾を潰すことを夢想するような、そんな下卑た夢を見る。柔らかな淡い色の蕾は、春の匂いも知らないで、俺の手の中で潰される。あっさりと地面に落ちるひしゃげた蕾を、俺はまた拾い上げて、愛おしそうに手の中に閉じ込める。俺の手の形に潰れた蕾を、ひっそりと、手の中に閉じ込めるのだ。それが、祈りにも似た姿をしていて、俺はひどくみっともない気持ちになった。
 コウキの手は柔らかい。子供らしい丸みの付いた手は、夢の蕾を思い出す。
 俺はふと思い至る。俺はその夢が恐ろしいのかもしれない。ふ、と零れた笑いを、コウキが不思議そうに見上げる。俺はなんでもない風を装って、その手に力を込めた。
 










無垢は罪