僕は神様を信じない。
 けれど僕は神様を知っている。肌身で感じている。
 神様は空気のように僕の隣にいる。僕の神様は友達だった。


 フタバタウンはのどかな町だ。とても小さな集落で、町全体が家族のようなもの。子供の数もそう多くない。友達と呼べる同年代の子供は、ジュンしかいなかった。
 ジュンは、いつだって自ら率先して何かをやってのける。失敗や怪我を恐れない。これをしよう、あれをやってみよう。僕の手を引きながら、ジュンが見せてくれる世界は僕にとっては、テレビの向こうの幻想世界や冒険活劇よりもずっと輝いて見えたし、大人が大切そうに持っている指輪やネックレスよりもずっと貴重なものだった。僕はあまり活発な性格じゃなく、その代わりというようにジュンはおばさんが困り果てるぐらいにせっかちで強引だった。けれどそれでも、僕にとってジュンは英雄だ。テレビの向こうに映る戦隊ヒーローよりも、二輪を走らせて悪を討つヒーローよりもずっと、遠い存在だった。尊敬してた。ジュンのようになりたいと思っていた。
 フタバタウンの大人たちは皆、口をそろえて『村から遠くに行ってはいけない。ましてや、草むらに入るなんてとんでもない』と子供たちに言い聞かせる。それは僕やジュンも例外ではなく、自分の身を守る術を持たない子供の僕らのために、当然の戒めだった。僕は、草むらの向こうにある景色に胸の鼓動を速めながら、その深緑色を前にしり込みをするだけだった。その草むらの陰に潜むポケモンたちは、僕らの命を簡単に奪ってしまう。呪文のように言い聞かされた言葉に、僕らは草むらを物欲しげに眺めているだけだ。
 けれどジュンは違った。ジュンは勇敢に何度もその草むらに足を踏み入れようとした。その度に大人に目聡くそれを見咎められ、というかジュンが騒ぎすぎるせいで、僕らの大冒険はいつだって阻止される。今思えばそれはただの、考えなしの命知らずな行いだったかもしれないけれど、その時の僕にとっては、ジュンが僕の手を引いて草むらの向こうの大冒険に出ようとしたことは、まぎれもない偉業だった。テレビの中でお姫様を助け出すよりも、ゲームの中で世界を救うよりも、もっとずっと、胸が躍って、興奮で手足の先がじんじんして、そこに居るだけで頬が赤く染まるような、そんな高揚感が僕の動脈を駆け廻って、体を芯が溶けだすような、とてつもない感動だった。ジュンなら何処までも突き進んでいけると僕は信じて疑わなかった。そうして突き進んでいくジュンにいつまでも付いていきたいと思っていた。いつまでも付いていくのだと疑わなかった。
 ジュンは僕の手を引っ張って、あちこちに連れまわす。シンジ湖のほとり、草むらの向こう側、村を囲う森の暗闇。僕にとっては町の外へ一歩踏み出すことす行くのだって立派な大冒険だった。鼓動は胸から飛び出しそうだったし、怖かった。けれど大丈夫だと信じていた。ジュンが、泣きべそを垂れそうになっている僕の手を強く握り、「大丈夫!」と僕の手を引けば、それで大丈夫なんだ。
 村の一歩外に出て、どれだけ胸がドキドキして張り裂けそうでも、先の見えない暗がりに怖気づいても、ジュンの手が僕の手を引けば、僕はそれで大丈夫だった。僕はジュンの手を、もっと強く握り返して答える。するとジュンは笑う。太陽がチカリと光るみたいに「な!大丈夫だっただろ!」と。ジュンが笑えば、笑って僕の手を引いてくれれば、それで僕は大丈夫だった。それだけでもう何もかもがうまくいく。何も疑うことはないし、何も心配することはない。ジュンの手が僕の手の中にあればそれだけで、僕らは大丈夫だった。
 僕にとって、ジュンは英雄だった。ジュンがいれば大丈夫。ジュンがいれば僕は何も怖くない。ジュンが僕の手をギュっと強く握ってくれれば僕等にはなんでも出来た。ジュンが太陽みたいにキラキラ笑えば、僕らは大丈夫だった。ジュンの手が僕の手の中にあるのなら僕はどこへだって行けた。
 僕は神様の存在を知っていた。神様は僕の一番身近にいた。僕にとって、ジュンは神様に近かった。
 ジュンがいれば大丈夫。ジュンが僕の手を引いてくれたら、僕は大丈夫なんだ。でもジュンがいなくなったら、僕はどうすればいいのだろう。一人だとどうしたらいいのか分からない。途方に暮れてしまう。だから僕も旅に出た。置いていかれたくなかった。傍にいてほしかった。ジュンの後を追うように、ジュンの見えない手が、僕を導いてくれるように、僕の手を引いてくれるように、僕はシンオウを旅した。
 ジュンはせっかちだから、どんどん先に進んでいく。僕はジュンの足跡を辿るようにして旅をした。ジム、町、道路、人。僕の行く先にはいつだってジュンが居た。ジュンがいたから、僕はそれを道標にして旅を続けることが出来た。ポケモンたちも強くなったし、僕自身もきっと強くなっていったと思う。出来ないことも出来るようになった。知っていることも一つずつ増えていった。分かったこともあった。けれどそれは僕の力じゃない。ジュンが僕の先を行って、僕の為に用意してくれていたことだ。僕はそう信じて疑わなかった。
 僕にとってジュンは神様だったから。


 激情やその場の興奮に身を任せてしまうことは簡単だった。僕はトレーナーとして何倍にも成長していたし、手持ちのポケモンたちだって、旅を共にして成長して、信頼し合っていた。普通のトレーナーなんかには負けないし、怒っていたって、僕が言えばきっとポケモンたちはそれに応えてくれる。ジュンにだって勝ったんだ。僕の神様にだって、トレーナーとしてなら僕は負けない。
 でもジュンは負けた。僕に負けた。ギンガ団に負けた。悪者に負けた。
 僕の神様が。
 感情や使命感に流されるなんて簡単だ。だけど、それが正しいことか僕には分からなかった。だってジュンはそうして負けたのだから。
 ぐるぐると目が回って、僕はどうすればいいのか分からなくなってしまった。足がぐらついた。深い雪に纏わりつかれて、足の先から僕は氷になっていく。怖い。考えたこともなかった。僕はジュンが居れば大丈夫。ジュンが居れば何も怖くない。ジュンさえ居れば、僕は大丈夫だった。ジュンは神様だったから、間違いなんかない。ジュンはいつも僕を導いてくれる。正しい方向に、僕の望む方向に。僕の世界はそれだけで世界は完成して居たのに。
 一面真っ白な世界は見知った景色によく似ていたけれど、あの頃とは何もかもが違って見えて、それでも光をきらきらして反射する世界が眩しくて僕は泣いてしまった。
 ジュンは普通の子供だった。僕と同い年で、分からず屋で考えなしで、大人たちが呆れかえるほどの無鉄砲さと短気を抱えた、ただの田舎の子供だった。世界を知って舞いあがっていた。自分の力が知りたくて焦っていた。自分の幻想が追いつかないようにがして必死だった。
 僕と、一緒だった。勇ましくも、果敢でもなかった。そう、ジュンは神様なんかじゃない。英雄なんかじゃなかった。普通の子供だった。僕だけが信じている世界で、そんなちっぽけな世界で神様に祭り上げられていた、ただの少年だった。
 ジュンは、神様なんかじゃない。ジュンは、僕の、友達だった。
 僕が信じていた世界なんて、僕が知っていた世界なんて、パノラマのようなでっち上げとつじつま合わせの狭苦しいものだった。それでも旅を続けて少しずつ広くなっていく世界でいつしか、ジュンは神様ではなくなってしまった。ジュンの言葉は、なんの根拠も確証もない、子供の戯言でしかない。ジュンの「大丈夫」なんて、本当は何の意味もなかった。
 冷たい風は肌を切り裂くみたいに僕の頬を叩きつける。ぼろぼろと流れる涙は形を作った途端冷たさに凍りついていくようだった。
 ギンガ団はジュンを嘲った。ギンガ団は僕を笑っていた。どうしようもなく子供な僕たちを見下していた。目の前に突きつけられる現実に足がすくんでしまっている僕たちを、嘲笑っていた。
 夢から覚めた気がした。それでも。
 ジュンは、強かった。負けてしまっても、神様じゃなくなっても、ジュンは偉大だった。ジュンは絶望しないし、諦めないし、失敗や敗北を恐れたりはしない。
 ジュンは神様なんかじゃない。ジュンは僕の友達だった。
 でも本当は、後ろを付いていくだけなんて、友達とは呼べない。僕はジュンの友達になりたかった。強くなりたかった。ジュンの手を握り返してあげたかった。ジュンが僕に言ってくれたように、根拠もない夢でも、「大丈夫」だと、言ってあげたかった。ジュンの言うとおり、勝ち負けなんて意味のない次元で、僕はジュンと一緒に居たかった。


***


「僕は思うんだ。」
 例えアカギがこの子を神様だと信じていても、きっとそれは見当違いなものだ。
暗くて途方もない世界。現実感のない世界。生き物の居ない世界。まるでパノラマの中に生きている神様。外を知らない神様。うぬぼれ屋の神様。未だ目蓋を閉じたままの、小さな子。
 きっと僕にとってのジュンだった。アカギの言う、神様というのは。
「あの人は、君なら何とかしてくれる。自分を導いてくれるって、本気で信じてた。絶対に正しいって、この世で一番すごいんだって。でも本当は違う。どれだけ君が強い力を持っていても、君はただのポケモンだし、ジュンはただの子供だもの。」
 けれど開いた目蓋の先は大きすぎて目が眩む。僕は何かを知っているつもりになっていたけれど、本当は何一つ知らなかった。
「一人じゃ何も出来ないから途方に暮れる。僕がそうだったように、あの人もきっと、何かを信じたかったんだ。自分の行く先を、ギラティナに決めてほしかったんだと思う。自分で何かを決めるのって難しいし、決めたとしても、それが正しいって言える自信なんてない。……きっと誰かに言ってほしかったんだ。僕は正しいんだって。」
 この世界には音もない。上も下もない。自分がちゃんと前を向いて立っているのか、どちらを向いてしゃべっているのかてんで分かりやしない。言葉を発しても、どこからともなく方々響いて、その声が本当に自分の声なのか僕には良く分からなかった。
「だから僕は、なんとなくアカギを憎み切れないんだ。あの人はきっと僕自身だから」
 けれど目の前で低く唸るギラティナを、僕は決して怖いなんて思わなかった。
この子は、神様なんかじゃない。僕はそれを、肌身で感じていた。神様なんてどこにも居ない。居たとしたって、神様は誰も救ってくれない。何も教えてくれない。
「だからこそ、あの人に出来なかったことを、僕はしたいんだ。僕は、僕の世界を君にも知ってほしい」
神様なんて、意味のないものだ。パノラマの中の飾りみたいに、ちっぽけで頼りない嘘っぱちだった。
「友達になろうよ。僕と一緒に外に出よう。一緒ならきっと、大丈夫だから」










ワールズエンドアニバーサリー!