「スザク、まずノックをしろ」
 ルルーシュの部屋は、広い家の一番西側にある。晩春のこのごろになると、西日が射して、ほんのりと暖かい。
 「今更だろ」
 「日本には親しき仲に礼儀あり、というありがたい諺があったな。」
 ノックもせずに部屋に入り込んだ無礼者のスザクには目も向けず、ルルーシュはいつも通りその西日の真ん中に座って小難しい本を読んでいる。蛍光灯を付けたところでこの暖かい西日の明るさにはかなわないので、ルルーシュは部屋の蛍光灯を付けていない。赤みが差した光を浴びて、ルルーシュの白い肌は西日と同じ様に赤みを帯びている。スザクは何故か見てはいけない気がして目を窓の外にやった。  窓の外にはソメイヨシノの木がルルーシュの部屋を囲むように立っていた。葉桜どころか新緑の中にぽつぽつと青い葉が混じっている。つい最近まで花が咲き誇っていたのに、とスザクは春が去ってしまったのを残念に思った。
 「何か用か?」
 「用がなかったら来ちゃ駄目なのかよ」
 「そんなこと言ってないだろ」
 何怒ってるんだ。ルルーシュは面倒臭そうに言った。髪を耳にかける仕草が、なんだか変に艶めかしい。
 ルルーシュは、女だった。体が丸くなって、七年前には真っ平らだった胸も出てきて、女特有の甘い香りがした。  髪だけは七年前と同じで、まるで男のように短かったが、黒い髪から覗く細くて白い首が、余計にルルーシュは女だと、スザクに自覚させた。
 「お前、いつも本読んでるよな」
 「違う。お前がいつも、俺が本を読んでいる時に来るんだ」
 スザクの前でだけルルーシュは男言葉を使い、一人称も俺になる。二、三年前にルルーシュの腹違いの兄だという長身の男と話すルルーシュを見て、あれは本当にルルーシュなのだろうかと疑うこともあった。ごきげんよう、ご健勝のようでなによりです、わたくしは。  スザクの知るルルーシュとはまるで違う、清楚で上品な皇女様がそこにいた。スザク君、と甘い猫なで声で呼ばれたときなんてあらゆる意味で鳥肌が立った。
 「スザク、いつまでも突っ立ってないで座ったらどうだ」
 スザクには、この目の前のルルーシュこそがルルーシュだ。あの猫なで声をスザクは好かなかったが、本来のルルーシュの声は好きだった。スザクが知るどの女より落ち着いた、透き通った声。
 ルルーシュの忠告通りスザクは腰を落ち着けた。ルルーシュが腰を落ち着ける西日から離れた影に。
 暖かい西日の真ん中は、ルルーシュの居場所だ。スザクはそれを侵してはいけないと思っていた。自分のような無骨な男に、侵入を許してはいけないのだ。
 不遜なスザクにさえそう思わせるほど、ルルーシュは美しかった。

 本当に美しかった。

 幼少には興味が薄かった色事にも、年を重ねるごとに欲は育って言った。スザクは顔が整っていた。首相の息子だったので、親が求める成績は当然納めていたし、加えて化け物じみた身体能力が生まれつき備わっていた。そんなスザクを周りの女学生は放っておかなかった。またスザクの手癖は決して良くなく、言い方を変えれば悪かった。よって、スザクには恋人と呼べる女性がいた。ついでに言えば四人目だ。そしてスザクの恋人に、ルルーシュは選択肢としても出てこなかった。ルルーシュは幼なじみで、スザクのたった一人本心を話せる人物で、ブリタニア本国に婚約者がいるらしかった。
 だからといってそれが理由と聞かれれば、それは違うとスザクは思っていた。ルルーシュの存在は神聖で、それを犯すことは許されないのだと心のどこかでスザクは思っていた。スザクが今までの恋人にしていたような邪な感情や欲望を持って接するべき相手ではないのだ。スザクはそう思ってルルーシュに接していた。誰か一人のものにするには、ルルーシュは美しすぎた。
 しかし現実は違うのだ。ルルーシュはいつかブリタニアに帰る。そしてその婚約者と正式に婚約する。ルルーシュは誰か一人のものとなる。―――それはいけない。スザクは心を激しい炎で燃やした。ルルーシュは誰かのものとなるのだ。スザクではなく、顔も知らないような男が、この世界の誰よりもルルーシュを知り、そして愛している自分からルルーシュを奪うのだ。
 そんな勝手なことは許されない。許してはいけないのだ。
 「ルルーシュ」
 「………なんだ」
 ルルーシュはスザクを見なかった。そういえば俺はルルーシュから嫌われていた、とスザクは突然に思い出した。早い頻度で恋人を変えるスザクを、ルルーシュはその度に低く罵った。『不潔だ、不純だ。君は猿か。倫理観がまるでなっていない!』
 そういえばこうしてルルーシュの部屋に訪れるのも、2人っきりで話すことも随分久しぶりなことに今更気づいた。ルルーシュの綺麗な瞳も随分とみていない。吸い込まれるような深い紫と、スザクの日本人らしからぬ碧の瞳が交わることすらここ最近はなかった。
 随分頑なに嫌われたものだとスザクはひっそりと落ち込んだ。
 西日はだんだんと角度を急にして、今はもうスザクもその光の中にいる。ルルーシュの聖域をスザクは侵していた。それは、スザクがルルーシュに触れないために自ら引いた一線だったが、いまは踏み越えたまま、動きたくなかった。手を振りあげることは極端に減ったが、ガキ大将のまま、周りに溶け込むこともせず、スザクは育った。スザクは小学校から殆ど精神的な成長せず今まで育ち、おかげで協調性という言葉をこれっぽっちも持ち合わせてはいない。スザクは、まるで城壁にぐるりと囲まれた要塞だ。うず高くまた厚い強固な城壁のおかげで、父親であるゲンブでさえスザクの内面には手が届かない。ただルルーシュだけは違った。ルルーシュだけは誰も越えることのない城壁をいつだって容易く越えてきた。閉鎖的な世界を生きるスザクには、ルルーシュだけが外と繋がる唯一の手段だった。ある頃から、周りが見えないほどの城壁を蟻一匹通れない緻密さでそびえ立たせたスザクの枯れた城には、ぽつりとだけ色の付いた部分が出来た。その部分はじわじわと、スザクが気付かないほどゆっくりと範囲を広げ、今は城を覆い尽くしてしまっている。
 それが、ルルーシュだった。
 スザクにはルルーシュの存在は最早かけがいのないもので、それを失うなんて考えられなかった。しかしスザクがそれをルルーシュに告白することはない。スザクがこの思いを言葉にすることもない。
 スザクは子供だった。精神的なものは小学生と変わらないような幼稚さだった。しかし、周りはそう見なしてはくれない。スザクの体は十分に大人で、精神年齢だって外見と変わらないのだと思われていた。だからスザクはそれに応えなければいけない。スザクはただの日本人じゃなく、日本国首相のひとり息子だ。周りはスザクが子供であることを許さない。スザクは否応無しに大人にならなければいけなかった。
 そして大人であるスザクは、ルルーシュは人質なのだと知っていた。ブリタニアの皇女殿下と自分が、結ばれるのは、宜しくないのだ。ルルーシュには婚約者がいて、スザクにも結ばれるべき人がいた。スザクとルルーシュが結ばれてしまえば、喜ぶのはブリタニアだけだ。ブリタニアは難癖付けて、最悪の場合ゲンブがやっとこじつけたこの和平状態だって崩れてしまうことになる。そうなれば軍事国家のブリタニアに日本の勝ち目はない。人質のルルーシュは見捨てられ、スザクも売国奴と罵られる。
 スザクは子供だったが、それを理解できないほど子供ではなかった。スザクはルルーシュに思い告げてはいけない。思いを遂げてはいけない。スザクには首相の子息としての責任があった。中途半端にスザクは大人で、ルルーシュの存在を、仕方ないと片を付けることもできず、そんなもの知るかと、何もかも投げ出せるほど無邪気ではなかった。
 だから今だけはとスザクは自分に言い訳をする。こんなことはいつまでも続かない。モラトリアムの時間も刻一刻と過ぎ去っていく。
 スザクは泣きそうになる。誰もルルーシュの代わりにはなれないのだ。ルルーシュの存在はあまりにも大きい。嫌われてるのは有り難かったが、スザクはせめて今だけは自分を見てほしいとルルーシュに懇願したかった。ルルーシュの肌に触れて、柔らかいルルーシュの体を抱きしめたい。しかしそんなことすれば、自分は止まらなくなる。ルルーシュへの思いも、自身の男としての情欲も。
 全てを投げ出せるなら簡単だった。しかしスザクにそんな権利はない。
 「ルルーシュ」
 「なんだ」
 「――――――」
 スザクはなんとか言葉を捻り出そうとしたが、結局は出せなかった。いつまでも黙っているスザクにルルーシュは何も言わなかった。スザクももう何も言えなかった。
 口にしていいはずがない思いでも、確かな言葉にして、そして告げたとしても、ルルーシュに拒絶されるのは怖かった。怖くて怖くて、臆病者なスザクには無理だった。
 ルルーシュは何も言わない。スザクもふさぎ込んだまま何も言わない。ルルーシュのページを捲る音は、スザクがこの部屋に来た時からとっくに途絶えてしまっている。西日はもう沈む寸前で、本を読むには暗すぎたが、ルルーシュは明かりを付けようとしない。ルルーシュは本を読むのを放棄していた。沈黙で包まれているルルーシュの部屋はまるで世界から孤立しているようで、それこそスザクの城の中のようだ。
 陽はどんどん沈み、すぐに夜になった。部屋は暗く、このまま夜にとけてしまえばいいのにと、二人は思った。

二人の王国