それはもう九年と五ヶ月と十三日も前のこと。初めて訪れた花盛る庭でありました。
それはそれは絵本の中のような美しい庭の真ん中で、可愛らしい子供が幸せな笑顔でくるくると走り回っている様子は、少年の目には妖精が戯れているように見えたのです。
少年は恋をしました。
知らずの内に愛の秘薬をその妖精に飲まされてしまったようなのです。
しかし少年はその恋がいけないことと気づいていたので賢くそれを口にせず、ただただ戯れる妖精の姿を目に焼き付けようと躍起になっていました。
たとえばそれは、幼い子供が見るような絵本の話。
「誰?」
「なーいしょ!」
簡単には教えないぞと、ジノは悪戯っぽくアーニャに笑いかけた。アーニャはジノを鬱陶しそうに一瞥して、習慣であるブログの更新作業を再開した。
ジノは量の多いアーニャの髪に梳き、上機嫌に鼻歌を歌っている。アーニャはおとなしくジノに触られている。最後ぐらいは優しくしてやろうとジノに情けをかけたのだった。
「初めて?」
「そ、初恋」
「そう」
カチカチカチ、アーニャの指で端末は音を立てる。ジノはアーニャの片方の束を結い上げ始めた。
「どんな人だったの?」
ジノはアーニャの言葉にジノは目を丸くした。アーニャが俺に興味を持つなんて!こんな風に会話が続く事だって、もしかすると初めてではないのだろうか。
アーニャの真意が汲み取れなくて、ジノはアーニャの髪の色より濃いピンク色を覗き込んだ。アーニャもジノの青い目を覇気のない目のまま覗き返した。一瞬見つめあった後、ジノはアーニャにからっとした笑顔を見せる。アーニャはそれを興味をもたずまたブログの更新作業に戻る。
「すごく、綺麗な人。本当に、初めて見たときは天使か妖精かと思った。」
「そう」
「そーだよ!すごく優しくて、それから頭がよくて、妹思いで、可愛くて、守ってあげたくなって」
片方を結い終わったジノはもう片方の髪を結い始める。はじめはひどい仕上がりになったものだが、近頃やっと見れたツインテールに仕上がようになった。
「―――オレはこの人のために生まれて来たんだと思わせてくれる人。この人のためなら何だってできるし、なんにだって成れる。そう思わせてくれる人。
オレあの人の騎士になるためにここまで頑張ってこれた。」
頑張り過ぎてラウンズになっちゃったけど!
「あの人の騎士になりたかったけど、あの人はオレの手の届かないところに行っちゃったから、あなたの騎士にしてくださいって、頼むのもできなかった。
諦めようとも思ったんだけど、諦められなくて、忘れられなくて、もう一度だけでいいから話したいと思った。
オレが少しでも偉くなれば、強くなれば会えるんじゃないかって思ってた。いや無駄なんだけどね、いや無駄じゃなかったか、ラウンズになってなかったら、エリア11に来てないし。
それでね、ちゃんと話したのも初めて会ったときだけだったし、覚えてるはずないって思ってたけど、オレのこと覚えてくれてたんだ。」
いやもうね、ほんとに綺麗だったよ。綺麗な人になってた。こんな綺麗な人がこの世にいたなんてオレ一瞬信じられなかったぐらい綺麗だった。
ジノの声は喜びに満ち溢れていた。アーニャは彼のこんな声ははじめて聞いた。喜びに打ち震えていて、幸せに酔いしれている。
「オレはあの人のために生きてる。だからあの人の幸せはオレの幸せ。使い古された煽り文句だけどさ、本当に心のそこからそう思える人なんだ。
悲しい顔も泣いている顔も見てみたいけど、やっぱり笑顔が見たいから、あの人がいつだって笑っていられるように助けてあげたい。
あの人の笑顔が見たい。あの人の傍で。大切なんだ。大好きなんだ。」
ジノはアーニャの髪を結いながら、その妖精を思い出している。アーニャの髪と妖精の髪を比べて、妖精の美しさを考えている。
それはとても失礼なことだとジノは知らなかった。彼は妖精に出会ってからは、見るものすべてをその妖精と比べてきたから、それが当たり前だった。だから再会したその日も、一目でその妖精だと分かった。
あの淡い思いを抱えたまま、その妖精が彼の前から消えなければ、彼がここまで盲目になることはなかったかもしれない。
けれどそれはもう遅く、妖精は少年の心をさらったまま随分長いこと放って置いたままだから、妖精が少年の心の代わりに植えておいた植物の種は彼の心があったところにしっかりと根を張ってしまった。
「だから、あの人の傍に居るのに今の地位や名前が邪魔なら簡単に捨てられる。」
興奮で上ずりだしていたジノの声が、少しだけ低くなった。アーニャはジノの過去にはあまり興味がなかったから、彼が妖精をどれだけ思っていたかは知らない。
けれどその覚悟を据えた声に、これで最後か、と短い付き合いを懐かしく思った。
「ジノ、好き」
「うん、俺もアーニャ大好き」
「そう」
「そう、だから最後はアーニャといようと思った」
「ジノ」
「うん」
「死なないでね」
「うん、アーニャも死んじゃ駄目だぞ。書類も全部自分で書くんだからな。ブログの更新ばっかり気にしてないで、ちゃんと寝なきゃ駄目だぞ。ちゃんとご飯も食べて、お菓子ばっかりだと太っちゃうぞ」
「気をつける」
「次会うのは、もしかすると戦場かもしれないから、そのときは躊躇したり手加減なんかしちゃ駄目だぞ」
アーニャはそうか、と思った。彼は妖精を守るために妖精の元へ行くのか。妖精は幸せな世界で生きていないのか。
そうか、ジノはラウンズである前にいつだって妖精の騎士だったのか。
「馬鹿にしないで」
「うん、ごめんね」
その内ジノはアーニャの髪を結い終わった。だらだらと時間かけていたのは今までと変わらなかった。
ジノが着ていた服は、ラウンズの正装でも、あの軽い私服でもなくて、安っぽいシャツとジーンズだった。その格好で妖精の元へ行くのかと思った。ラウンズの服やマントはどこに行ったのだろうとふと疑問に思った。塵に塗れて汚れているのかもしれない。それはラウンズを敬うすべての人を侮辱する行為に違いなかったけれど、アーニャはそれをいけないことだとは思わなかった。
それどころかどこか清々しい気さえした。おそらく、アーニャはジノがラウンズに成りたかったわけではないのをなんとなく感じていたのだろう。
ラウンズの服を着るジノは、どこか偽者のような気がした。こんな安物初めて着るだろうに、見慣れたラウンズの服よりもずっと似合っていた。
最後にジノはアーニャの額にキスをした。アーニャは背が低かったから、ジノの頬にキスをした。本当は額にしたかった。こればっかりは、仕方ない。
「それじゃ」と、まるで散歩に出かけるようにジノは部屋を後にした。そしてもう戻ってこない。
暖かな手の感触が消えるまでは、ジノを追うのは止そう。それが消えるまでは、彼はアーニャの一番の相棒だからだ。
そして数時間経ってアーニャは髪を解いて、結い直す。(だらだらと時間をかけるジノとは違い)手早く、(最近やっと高さが揃うようになったジノとは違い)綺麗に。
次に会うのはきっと戦場だろうから、何時までも裏切り者に拘っているわけにはいかない。アーニャは自分のためにラウンズになった。
裏切り者と違い、アーニャはそれを誇りに思っている。ただアーニャは裏切り者と違い、守りたい人はいなかった。
ラウンズに与えられた使命として皇帝とブリタニアという国は守るべきものだったけれど、アーニャが自分から守りたいと思う人は世界にはいなかった。
別にアーニャはそれを悲しんだりはしないけれど、ジノが今までしてきたことを全て放り投げても守りたいというその妖精には少し興味があった。
こんなことならジノについていけば良かったかも知れない、とアーニャは少しだけ思った。ジノがいないのはつまらない。
それに件の妖精に会えば、その妖精を守りたいというジノの言い分を少しは理解できるかもしれない。
「アーニャ」
声を見上げれば、そこにはスザクがいた。
「ジノはどこにいるんだい?」
キョロキョロと辺りを見回しながらスザクはアーニャに聞いた。そんなことアーニャが知るはずもないので、ジノから聞いたことをそのまま答えた。
「あいにいった」
誰に、とスザクは聞き返したが、それもアーニャま知るはずもないので、またアーニャは聞いたままに答えた。
「妖精に」
スザクが固まった。その時アーニャはスザクへの興味をなくしていたので、中断していたブログの更新作業を再開した。
あいにいきます
会いに行きます
愛に生きます!!