金髪の美青年の名前はアルフレッドさんといい、アメリカからの留学生と言うことだった。随分育ちが良いようで、どこぞの大富豪のお坊ちゃんだと聞いた。ロボットの事以外に海外に全く興味のない私はその企業や家の名前に聞き覚えがなかった。彼がきゃあきゃあと黄色い悲鳴を受けていた理由は、彼が外国人の美形だからだけでなく、そういう理由もあったらしい。遠い日本の地でも遺憾なく発揮されるリーダーシップで、彼は一躍人気者だったそうだ。実のところ大半の生徒が彼のことを認識していて、彼を知らないのは、一日中研究所に入り浸っている私のような人種だけだった。
しかし彼との出会いの一件で私まで一躍時の人扱いだ。結局味噌汁は食べ残してしまったし、構内は彼と私の不名誉な噂で持ちきりで、研究室以外に行く宛がなかった私は、今度こそ研究室以外の場所に居場所がなくなってしまった。ゼミの仲間は私に同情的な視線を送ってくれたが、それでも中には野次馬根性目覚ましい、好奇の視線を隠し切れていない輩が何人も居た。教授だって、世界の大企業の御曹司の機嫌を損ねたくないと、私の心情には非協力的だった。正直ゼミメンバーの中で私を真剣に心配してくれていたのは、組み立て担当のルートヴィッヒさんだけだ。ルートヴィッヒさんは、研究室の出入り口でアルフレッドさんが待ち伏せしているのを知って、アルフレッドさんの気を引きつつ私を裏口から出してくれた。彼の優しさに感動しつつ、登校しては研究室に入り浸り、裏口からこっそりと抜け出す日が続いた。そもそもここまで徹底的に避けるのは可哀想かとも思ったのだけれど、アルフレッドさんは私を見つける度にあの巨体で飛びかかり、私を鯖折りせんばかりに抱きしめ、果てには聞き取れもしない早口の英語で愛の言葉をまくし立てる。彼の機嫌がいいときには頬にキスをし、フィギュアスケートのペアのように私を振り回しまくる。そんなことが数回続けば、彼に気遣うという選択肢は私の中でなくなってしまった。彼も彼で、私が自分を嫌っているなどという可能性を考えもせず、まるで躾のなっていない大型犬のごとく私に襲いかかった。 そうしてある日のことだった。彼はもう数ヶ月日本で暮らしているので、日本語も随分理解できるようになっていた。運悪くその日はルートヴィッヒさんの姿が見えず、私は注意深く研究室をでたのだけど、案の定アルフレッドさんに捕まり、そのまま学生食堂へ引きずられていった。 彼は随分日本語が堪能になっていて、英語訛りの妙なイントネーションを除けば、日本語で苦労していることはなさそうだった。「君のために一生懸命覚えたんだ!」と誇らしげに胸を張り、随分流暢になった好きと愛してるで私への告白を繰り返す。周りの興味津々な視線と彼の真っ直ぐな視線が私の体力と気力をガンガン削り、私の顔色は真っ青で冷や汗は止まらなかった。決して体調が悪いわけではないのに、徹夜明けのように体が重くて目の前の彼と野次馬の存在を呪いたくなった。 「菊、顔色が悪いよ」 何の呪いか。私の体調を気遣ってくれるのは目の前の諸悪の権化しかいない。せめてルートヴィッヒさんがいてくれたなら……! 私は半分泣き出しそうになりながら彼の優しさを呪った。 「ちょっとトイレに行ってきます」 「うん、ゆっくりしてきなよ」 私はトイレに向かうが、彼は私を不思議そうに見ながら制止する。 「菊、反対だ。トイレはあっちだよ」 食堂のトイレは左右対象に食堂の端と端に設置されていて、彼の指は女子トイレの方を向いていた。 「いえ、こっちで合ってますけど……」 彼はまた不可解だという顔をして少し考えて、やがてはっとしてよく通る声で叫んだ。 「君ってもしかして男の子だったのかい!?」 一瞬食堂の全てが音を立てるのをやめて、彼の言葉を理解するのに時間を食った。 「………し、知らなかったんですか!?」 私は昔から童顔で、二十歳を超えた今でも中学生に間違えられることはしばしばあるが、もしや女に間違えられることがあるとは思っても見なかった。言葉を失った私たちは呆然と向かい合い、食堂に誰かの耐えきれなかった笑いが噴出するまで動けなかった。 おかげさまで不名誉な噂は一掃できたが、また違った噂が立ち回り、私に向けられるのは好奇の視線からくすくす笑いに変わっただけだった。それ以来彼を避けることはなくなり、正真正銘彼と私は「いい友達」となれたのだった。同じ恥をかくと二人の間には妙な連帯感が生まれ、私と彼はよくつるむようになった。彼は私の家に入り浸って、私の漫画やDVDを漁ったり、夕食を食べたりしていた。広いわけではないけれど、一人暮らしするには少し広めな家に彼の存在はよく馴染んだ。アルフレッドさん自身も私の下宿先を気に入ったらしく、入り浸ったうえに泊まっていくことが多くなった。私も彼の下宿先に泊まることはあったけど、彼の部屋は広すぎて落ち着かなかった。これぞアメリカサイズか……、と途方に暮れたのを彼は少し呆れて見ていた。彼が私の家に転がりこむことが多くて、結果的に私の家には彼の私物が溢れている。パジャマとか歯ブラシとか、下着とか彼のお気入りのマグカップとか。同居してるのと変わらないなあと思いながら、食費は彼持ちなので、出ていけとは言わない。 数ヶ月たっても、彼は私の家に入り浸る。相変わらずきゃっきゃきゃっきゃと女の子に囲まれているのだから、さっさと彼女でも作って、そこに転がり込めばいいのにと思わないでもない。彼が私の生活に顔を出し始めてから、私の周りは随分と騒がしくなったものだ。また騒ぎを持ち込んだ彼に食後のコーヒーを出す。青いマグカップは彼の私物だ。 「お兄さんはあなたのことを考えていらっしゃるんでしょう」 「でも俺はアーサーなんて大っ嫌いなんだ」 私の話を半分も聞いてなさそうな彼は、ぷうと頬を膨らませてそっぽを向いた。私は彼の幼い行動に内心かなり苛立ちを覚えたが、彼より幾分年上な私はそれを無かったことにして根気良く彼を説得した。 「そんなことを言っても、下宿先を急に変えられたら、ご家族が心配なさると思いますよ」 「かまわないよ。アーサーは僕が散歩してたって心配なんだ」 彼の兄だというアーサーという青年は、どうやら重度のブラコンらしかった。私も家族との仲はかなり悩んだ方だから、彼の持つ反抗心が分からないわけでもない。 「だからといって下宿先を引き払うことないでしょう」 「いいや必要だね。アーサーは俺がもう自分の手から離れているってことを自覚するべきなんだ」 憮然とした顔で彼は言いきる。彼は兄のブラコンぶりに相当頭にきているようだった。そうでなくては嫌になるほど思い知らされた彼の無茶な性格でも、いきなり住所を引き払うことはないだろう。思い切り他人事な事件に私が口を出すつもりはないが、今回のことは少し急だった。 「外国人って部屋借りにくいんですよ」 「それは分かってるよ」 誰かのために買ったプレゼントが、他人の家でなく自分の家にあるというのはなんだか変な気分だ。誕生日祝いに贈ったビーズクッションを抱え込んで、彼は少し拗ねたように寝転がっている。やはり兄との間に何かがあったのだろう。家族の問題に他人が口を出すほど無駄なことはないので、私は黙って彼が一気に飲んだコーヒーを片付ける。 「まあそれだけ日本語が堪能なら、それ程苦労はしないと思いますけど」 「そりゃそうだよ。なんたって君のために覚えたんだから」 「あーはいはい。何百回も聞きましたよ。それより、あなたこれからどこに住むつもりなんですか。一週間や二週間ぐらいならかまいませんが、さすがに何ヶ月はとめられませんよ」 「なんでそんなに冷たいんだい!ちょっとぐらいいいじゃないか!」 俺が路頭に迷ってもいいって言うのかい!? アルフレッドさんは悲壮な顔で私に詰め寄る。目の色はなかなか必死だったけれど、この件に関しては全くの自業自得で私が彼をフォローする理由が見当たらない。それをそのまま伝えると彼はじたばた駄々をこねるだろうから、事実を織り交ぜて言い訳するのが吉だ。 「なんでって・・・・ここ結構契約厳しいんですから」 「でも恋人が困ってるんだぞ!ルームシェアぐらいしてくれたっていいじゃないか!」 「…………え?」 あのとき彼に告白されたときや、女と誤認されていたことが発覚したときと同じ衝撃が私を襲う。私の動きが途端に鈍ったのを見て、アルフレッドさんはきょとんとした顔で見ている。 「え、その、だって、私、男ですよ?」 どもりながら私がそういうと、「そんなのはとっくに知ってるよ」と呆れながら呟いた。彼は私の手からマグカップを奪って、部屋の真ん中のちゃぶ台に置いた。マグカップを失って手持ち無沙汰になった私の手をぎゅっと握り締め、彼は声を低くして囁いた。 「男でもかまわないよ。君が好きなんだ。愛してる。」 こういうときに美形というのは卑怯だと私は思う。例え宣言しているのが自分はホモかもしくは両刀で、兄と喧嘩してムカついたからマンション引き払ったんで一緒に住んでくれと頼んでるだけであっても、整った顔つきには映画のスクリーン越しに見るような迫力があり、言葉は喉を通り越さない。今や私の中で笑い話に成りかけていた彼の真っ直ぐな視線が、私の体力と気力をガンガン削りだしていく、冷や汗が止まらなかった。話そうとしない私に彼はどう思ったのか。真剣な顔のまま、私の背中をやんわりとカーペットに押し付ける。 「とっくに伝わってると思ってたんだぞ」 やばい。これはやばい。やばいやばい。蛍光灯の光を背に受けて翳るアルフレッドさんの顔は、今はじめて見る人間のように慣れない。眼鏡のレンズに反射する私の顔は色々な感情に頬が引きつっているが、彼にはそれが見えないのだろうか。それとも中途半端に覚えた日本語で「嫌よ嫌よも好きのうちなんだろう!」と妙に楽観的な思考で私の恐怖や驚愕を無視しているのだろうか。やばい。本当にやばい。とにかくやばい。これは・・・・貞操の危機。あああぁぁあぁあぁあぁああよもや男相手に貞操の危機を感じることがあろうとは。どう考えても転落人生。もしかするとあのくすくす笑いは私と彼の仲を邪推しているものだったんじゃないだろうか。ああぁぁぁああぁああああぁあああ。 すごい速さで今までの態度を後悔していると、彼は私の恐怖に慄く顔が張り付いた眼鏡を取って、マグカップと同じようにちゃぶ台に置く。 「怖がらなくても大丈夫さ」 怖がってるの分かってるならさっさと止めろ! アルフレッドさんは私の両腕を押さえ込んで、馬乗りになってマウントポジションを陣取る。 「君を愛しているからね」 愛は世界を救うかもしれないけれど、彼の愛は私を救っちゃくれない。どうやら神様は私を見捨ててしまわれたようだ。スポーツマンの彼のがっしりとした体を、両腕を押し込まれた私は押し返すことが出来ない。彼はマウントポジションから私を見下ろしていて、足をどれだけばたつかせようが大した抵抗にはならないだろう。あぁあああぁぁああぁぁああせめて両腕が自由ならどうにかできたかもしれない。悔し涙かなんだかは分からないが、既に半泣き状態にある私の視界はぼやけ出している。助けてと叫ぶにしても、それが男に襲われているからなんて理由は正直情けなさ過ぎる。 「アルフレッド!出て来い!ここにいるのは分かってるんだ!」 ドアを壊す勢いで誰かが怒鳴り込んできたのはその時だ。彼の名前を出していることから、私はとっさにアルフレッドさんの兄、アーサーさんを思い浮かべた。アルフレッドさんは忌々しげに顔を顰め、唇が触れる寸前だった顔をさっと遠ざけた。私は誰だろうと乱入者への感謝が尽きない。大股でリビングへ入って来た男性は、アルフレッドさんと同じ金髪に鮮やかな緑色の眼をしていた。上品なスーツをきっちり着た利発そうな青年だった。私はその男性に向かってやっと喉を通り抜けた言葉を叫んだ。 「助け「てめえうちのアルフレッドに何してやがるっ!!」 |