九死に一生を得たと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
 私達の姿を確認するなり、利発そうな青年は物凄い力で二人を引き離した。「(た、助かった……)」と思ったのも束の間で、ぐいと胸倉を掴まれ、宙吊りにされ、乱入者の憤怒の顔が眼前に広がる。
「てめぇがアルフレッドを唆しやがったのか……!」
 親の仇を見るような、異常に強い眼力に私の小さな希望は見事に砕け散った。乱入者はアルフレッドさんの兄で間違いないようだ。この人の話を聞かないのは間違いなく遺伝子だ。人体の神秘。何もこんな迷惑な遺伝子を受け継がなくても良かったんじゃないだろうか。私は比喩でも何でもなく半分泣いた。爪先立ちで立ってはいるが、爪先に負担は感じない。むしろ彼に持ち上げられた服の襟が痛い。相手は男だが、こんな片手で持ち上げられるほど私の体重は軽いのだろうか。彼はそれほど、筋骨隆々というわけでもないのに。
「ごごご、ごご誤解ですぅっ……」
「嘘を吐くな!」
「アーサー、止めてくれよ!」
 アルフレッドさんはヒーローのごとく立ち上がったが、
「菊にはなんの責任もない!俺が菊を愛してるだけだ!」
「それを唆したっていうんだ!」
「勝手なこと言わないでくれよ!」
 その通りだ。
「騙されてんだよ!お前なんか利用されるだけ利用されて、すぐに捨てられちまうぞ!」
「そんなの君の勝手な妄想だ!」
 全くもってその通りだ。
「騙されてる内は皆そう思ってるんだ!!」
 私にとってはゴのつくでっかい怪獣対メカなゴのつくでっかい怪獣のような、迷惑極まりない喧嘩が始まっただけのように思えた。何しろ声がでかい。私の意見を聞かない。口を挟む暇もない。その間もぎりぎり締め付けられる私の首。愛しているなら気付いてほしい。それにしてもお兄さんの腕は疲れ知らずなのだろうか、片腕で私を持ち上げたままだが、ぴくりともしない。一番先に音をあげそうなのは私の服の胸元だ。
「愛なんか感じてるのはお前だけだ!」
 それは確かにその通りなのだけれど、こっちは彼を利用する気なんて更々ない。良いお友達で居られればそれでいい。アルフレッドさんもそこは自覚があるのか、悔しげな顔で息詰まった。そんな彼にお兄さんは、勝ち誇ったように鼻を鳴らす。アルフレッドさんは唇を噛み締め、拳を握り締めて、悔しそうに項垂れた。二人とも大層イケメンなので、まるで映画のワンシーンのようだったが、私はヒロインどころかただの一般人で、尚且つ男なので、目の前に繰り広げられる昼時のメロドラマ展開には些か引き気味だ。怒りに目を光らせるお兄さんは、今度は私を標的と定め、胸倉を掴んだままガクガクと私を揺さぶった。
「それで、え?お前はどうなんだ。どうせ、金目当てなんだろ」
「だ、だから誤解ですっ。私は、別に……」
「しらばっくれるな!」
「しらばっくれてなんかいませんっ!」
 あんまりしつこいと私だって怒る。意を決して、お兄さんの肩を突き飛ばす。鷹揚に胸を叩き、「私は大和男児です!人を欺くような卑怯な真似はしません!」と熱血マンガような台詞を吐いた。でも怒鳴ってから冷静に戻った時のプレッシャーはひとしおだ。所詮私はゴのつくでっかい怪獣対メカなゴのつくでっかい怪獣の激しい戦闘に逃げ惑うエキストラの一人でしかない。でもハリウッド版のゴのつくでっかい怪獣は間違いなく一般人が怪獣を倒した。私はハリウッド版否定派だけれど、やって出来ないことはなかった。が、内心はもう萎縮してしまって、鼓動のうるさいこと、うるさいこと。お兄さんは突然の反撃に驚いたのか、口をぽっかり開けている。
「お前……男か……?!」
 さすが兄弟。こんな勘違いまで繰り返すとは、というより、私はそこまで女顔だろうか。今まで女性に間違われたことなんてアルフレッドさん以外にはないのに。お兄さんは雷に打たれたように狼狽し始めた。彼は女性にまでこんなことをするのか。人でなしなのか、それとも頭に血が上っていて、力加減が出来なかったのか。しかし私が男だったことにそこまで衝撃を受けるとは、
「(ショックも受けますよね……)」
 可愛い可愛い弟がその道に走ったとあっては。彼に同情しながらアルフレッドさんの方を見ると、ぱっと顔を上げ、決意したように叫んだ。
「それでもいいさ!君を愛してる!」
「もう、これ以上話をややこしくしないで下さいよ!」
「だってさっきはアーサーに邪魔されたじゃないか!」
「邪魔じゃありません。助けられたんです」
 アルフレッドさんはぷぅと頬を膨らませ、まだ茫然としているお兄さんを押しのけて抱きついてきた。今までなら抵抗するつもりも起きなかったが、今日からは少々、いや大幅に意味合いが違ってくる。ぎゅっと横から肩を抱き込まれた。先程を思い出し、私の顔色はさっと青くなる。ああ、あのまま諦めてくれたらよかったのに。
「そんなに嫌がることないじゃないか」
 ぐっと近づくアルフレッドさんの顔から遠ざかろうと、私はぐっと首を後ろに伸ばした。
「わ、私はノーマルですので……」
「俺だってそうさ」
「いやいやいやいや、無理です。無いですって」
「無理かどうかは挑戦してみないと分からないんだぞ。……大丈夫!」
 キラキラと輝く、眩しい笑顔だけは変わらない。いや、彼からしてみたら、彼は私と出会った頃から、心境になんの変化もないのだ。しかも今しがた新たに決意を固めたところだ。
「一発なら誤射の内さ!」
「なにそれこわい!!」
「これだから日本人は………男か女か、区別もつかねえ……っておい!お前ら何くっついてんだ!」
 やっと自分を取り戻したお兄さんは、もう一度物凄い力で私達を引き離した。アルフレッドさんは不満げだが、私は今度こそ彼に助けられたような気がした。
「俺の目の前で唆すとは、やってくれるな!うちの可愛い弟をその道に引きずり込みやがって……」
 どうやらそれは私だけのようだ。お兄さんは怒りに顔をひくつかせ、歪な微笑みを浮かべている。私は既に諦観の情を持ち始め、悟りでも開けそうな精神状態となった。きっと彼には何か視覚障害でもあるのだろう。怒りを覚えるのも、正直馬鹿らしく成ってきた。彼の目には、そうだきっとアルフレッドさんが天使か何かこう神々しいものにでも見えているのだろう。それが浅ましい私のような人間に心奪われるなどと、私に唆されたとしか考えられないのだ。しかし、それは私をぶちのめすよりも、もうアルフレッドさんに首輪でも填めて置いたらどうだろう。
「(なんか、同人誌でありそうな設定ですね……)」
「ほら菊、言っただろ。アーサーは俺の話なんか聞かないんだ」
「本当、……そうみたいですね」
「迷惑な話だよ」
 というか、これじゃあ話が前に進まないのではないか。さっきので分かったように、これじゃあずっと話題がワープするに決まってる。しかも、当の本人にどちらの話も聞く気がないというのでは話しにならない。状況を打破する手段が見当たらない。何かしらのバグが起こって、必須アイテムを入手しそこねたんだろう。なんか、二人の絆を取り戻す思い出の品的なものが。
「お前聞いてんのかよ!」
「き、聞いてますけども……」
 リセットボタンが見当たらない。アイテムでごり押しは不可能。セーブは上書き状態。アルフレッドさんは、なんだか拗ねてそっぽを向いている。駄目だ。終わった。
「おい!聞いてんのかって言ってんだよ!!」
 再び胸倉を掴まれ、拳を振り上げるのが見えた。デスルーラ、それもありか。
「菊うぅぅ!大丈夫あるかぁあああ?!!」
 ドアがぶち破られるとともに、懐かしげな声を聞いた。
「まだ体は清いま………ま、」
 私達三人は新たな乱入者に驚いて時を静止させていた。廊下から駆け込んで来た私の義兄を含め、また時が静止する。廊下の陰からべっこべこにひしゃげている玄関のドアが見えた。哀れみを誘うが、そのシュールな様に漫画のような現実への乾いた笑いの方が先に出た。
「はは……」
 漫画みたぁい。笑っていたのは私だけだ。ふと見るとお兄さんの腕は振り上がったままで止まっていて、成り行きとして私は耀さんに助けられたようだ。そう思ったのだが、振り上げられたお兄さんの腕をアルフレッドさんがいつの間にやら掴んでいた。恐らく助けに来てくれたようではあるのだが、耀さんですら状況をややこしくする乱入者でしかないようだ。
「や、耀さん……?」
 力が抜けたお兄さんの拘束をすり抜け、わなわなと震えている耀さんへと駆け寄る。
「耀さん、どうしたんですか」
 耀さんからしてみればこっちがどうしたという話ではあろうが、そんな風に固まられてはこっちが困る。アルフレッドさんももう暴力を振るう気を無くしたと判断したらしく、お兄さんの腕を放している。最早冷静でないのは乱入者たちのみだ。何が起こったのか、両者はきっ、とにらみ合い一触即発だ。アルフレッドさんは呆れて肩を竦めている。どうしたものかと眉を顰めると、耀さんがこれでもかと息を吸い、「テメェゴルァ眉毛ええぇぇぇええ!!」と叫んだ。驚く暇もなく、右ストレートがお兄さんの頬を撃つ。
「うわぁぁあああああちょっとおおおおぉぉお」
「本当に迷惑な奴らだなぁ」
 アルフレッドさんの言葉にこれほど同意したこともない。